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《ワークショップReD # ensemble》藤野裕子『民衆暴力』(中公新書)を読む

金井隆典(日本政治思想史)

藤野裕子(日本近現代史)

阿部安成(近代日本社会史)

 「暴力」の論じ方や書き方には、その組み換えが必要だとわたしは思う。それを展望するために拙稿の一部を示そう――「1870年代末から1880年代中葉くらいを、生活者の暴力の時代ととらえる論点を示して終わろう。フィールドを狭く社会的困窮や負債問題や貸借関係を基軸とするひとびとのつながりに設定してみよう。そこに、債主、負債者、調停者、県、国家といったagencyをおいてみると、いずれにも死に到る暴力の意味が共有されていた。一度、二度と現実にその暴力があらわれれば、それを強烈に思い浮かべるだけでひとは調停者や仲裁者やそして戦士としてみずからを成り立たせることができ、あるいはそれを鋭く口にするだけで相手を譲歩させたり地域一帯を人心恟恟とさせることができた。だからいわば暴力をいかに飼い慣らすかが、近代という時代に入り始めた日本という規範秩序の要諦となったのだ。こう考えてみると、武相困民党が結成にあたって掲げたわれの最強の対手とは、この暴力そのものだった。この対手といかにつきあうかがもっとも重要な課題であり、それは負債者であれ党であれ国家であれどこにも課せられた案件だった。わたしはそれを須長漣造を軸に、彼が躍動するまえの武相の出来事と、彼のその後の遍歴とをならべて、そこを問題を集約させたフィールドとして考えてみた。色川大吉の慧眼がとらえたように、須長は合法と非合法、屈従と抵抗のあいだに設けた隘路をたどり、そこを抜けたさきの拓けた原野で斃れたのだった。この分割された二項をこれまでみてきた意味での〈暴力〉で結びあわせてみると、須長は死に到る暴力を想起することで彼を活動する彼たらしめたのだったし、一方で彼はその暴力を現実に行使することはなかった。そして時代は後者こそが不可逆の趨勢となって展開してゆき、暴力は国家が独占したかのようになった。しかしそれを後世の歴史家が肌で感じるように知っているとしても、須長の精神を近代革命思想への飛躍の一歩手前におくという審判をくだしたとき、実は須長の行動と精神、その軌跡とその意味はばらばらに解体されてしまったのではないだろうか」(阿部安成「武相地域と須長漣造と困民党の時代―反芻される暴力の抑圧と秩序」『フォーラム』18、跡見学園女子大学文化学会、2000年)、「強固に結びあいながら戦い続けることは生活者の術だったのだろうか。生活者が戦いのなかで暴力をわがものとしたとき、思いもかけない民の暴力はその決意の凄まじさとその行使の烈しさゆえに、所期の成果をおさめることもあった。他方で、暴力の持続はせいぜい数時間か数日のことで、運動が強固な結びあいのもとで遂行され続けるとしたら、それはもはや生活者のものではなくなる。闘争が終わってみれば発揮された暴力はその行使者にとてつもない負荷をおわせることもあっただろう。民はみずからも驚くほどの暴力が成し遂げた成果の対価として、いくらかの矜持や諦念や鬱屈を抱え込みながら日々の家や村での生活者にもどらなくてはならない」(阿部安成「物語の事件、事件の想起―1884年露木事件の経験」新井勝紘編『近代移行期の民衆像』民衆運動史第4巻、青木書店、2000年、所収)。

(阿部安成)

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