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1970年代から1980年代にかけてのシンガポールの団地開発に関する社会学的研究

社会システム学科 准教授 鍋倉 聰
 シンガポールの団地開発は、HDBの前身機関で英国植民地時代に事実上団地当局の役割を担ったSIT(Singapore Improvement Trust=シンガポール改良信託)が、1937年から団地建設を始めたことに始まる。1960年以降はHDBが団地開発を進め、1960年代の団地開発は、もっぱら都心から5マイル(=約8km)以内の範囲で行われた。すなわち西はクイーンズタウンニュータウン、北はトアパヨニュータウン、東はカラン団地であった。唯一の例外が、西部一帯で進められたジュロン工業団地開発の一環として建設された、タマンジュロン団地であった。  以上の1960年代までのシンガポールの団地開発を踏まえ、今回収集した資料をの内容をもとに1970年代から1980年代にかけてのシンガポールの団地開発について大まかに述べると、以下のようになる。
 1970年代前半は、1960年代から引き続き、ジュロンのような例外を除いて、西はクイーンズタウン、北はトアパヨ、東はカランの範囲に団地開発が限定され、そのエリア内での団地開発が徹底的に進められた。西南部のテロクブランガ団地の開発のほか、市中心部の再開発が進められた。
 1970年代後半になると、クイーンズタウンの西のアヤラジャとクレメンティ、トアパヨの北のアンモキオ、カランの東のベドックと、ニュータウン開発はその外側に広がった。このほか、例外的に、西部のジュロンのほか、北部ではウッドランド、東部ではチャンギビレッジ等でも団地開発が行われた。
 1980年代になると、クレメンティの西のジュロンイースト、アンモキオの北のイーシュン、ベドックの東のタンピネスへとニュータウン開発はさらにその外側の広範囲に広がり、1970年代後半に例外として挙げた団地とつながり、シンガポール全土が団地化するに至り、総団地化社会が実現した。
 こうした総団地化社会の実現は、シンガポールに暮らす人々にとって、団地以外に暮らす場所を見つけるのが困難になることを意味した。
 1970年代前半以降、市中心部で行われた都市再開発で、多くのショップハウスが取り壊され、人々は市外の団地に移ることを余儀なくされた。市外では、カンポンという集落がシンガポール中にあったが、団地開発のためにその多くが取り壊された。団地以外の住居から団地への移動が他に行き場のない中で徹底的に進められたのが、この時期であった。
 またかつては中所得層以上の多くは、主に民間開発業者が開発した住宅に住んでいたのが、1970年代以降の世界的なインフレーションにより、民間住宅の価格が高騰し、これらの層が団地に住むようになっていったのもこの時期であった。 HDBは、団地居住資格の所得上限を上げ、部屋数を増やして高級化し、これらの層も団地に住むようにした。こうして、総団地化社会が実現していったのである。
 一方、団地に住む人々は、単に団地への移転を押し付けられただけでなく、自らよりよい暮らしを求めて、積極的に団地に移る動きも見られ、さらに団地から団地へ移る動きも活発になった。団地住民はまた、自分の団地をより住みやすくするために活動を始め、団地当局に様々な要求を行い、時には抗議するといった興味深い動きを見せた。団地住民に対して、政府は社会調査を繰り返し行った。
 以上記したことは、あくまで大まかな概要にすぎない。収集した資料の分析を今後さらに進め、本研究をもとに、特にシンガポール研究で疎かにされがちな団地住民側の視点も踏まえ、団地当局と団地住民がせめぎ合う中で総団地化社会が実現していく過程と、実現後の過程を明らかにすることで、社会学研究を進めていく。


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