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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第5号

平成八年度企画展示
近世近江の商人―その経済活動と商いの特徴―

 来る10月2日から12月20日まで史料館では「近世近江の商人」の企画展を開催します。近江商人と聞くと何か大昔の、現代とは無縁なお話のように感じる方もあるかも知れませんが、単に「滋賀県を出発点にして全国に向けて広範な営業活動を行った経済人」だと考えると、本学卒業後に全国で活躍予定の皆さんとの共通点も少なくないはずです。
 何故我々の大先輩である近江商人達は当時の経済界で大成功を収めることができたのか?彼らのサクセス・ストーリーから学び取ることもできましょう。また郷里・滋賀県から遠く離れた、未開拓の北海道等での商業活動には様々なリスクがあったでしょうし、また企業活動には不可欠な出先と本拠地との連絡、会計処理等にも困ったはずです。今日のような近代的な通信・交通手段のない当時における広域的な経済活動には無数の障害があったはずです。展示ではこうした困難を乗越えた先人の創意と工夫にも注目したいと思います。
 今回は特に産業共同研究センターとも協力して、別記のような講演会等の開催も4回予定しています。近江商人の現代的意味についても皆さんと一緒に考える場にしていきたいと思います。この講演会に合せて、ぜひ史料館でベンチャー精神あふれる近江商人等にかかわる文書・遺品・現物史料をゆっくりとご覧下さい。
(史料館長 小川 功)

企画展解説
『近世近江の商人』―その経済活動と商いの特徴―について

 本年度の史料館企画展は、標記のテーマで開催されます。「近江商人」は、「伊勢商人」とともに近世紀を代表する商人類型です。伊勢商人が三都(大坂・京都・江戸)を中心とする消費都市における常設店舗経営を特徴としたのに対し、近江商人は全国への持下り商い(行商)を特徴としています。もちろん、行商のみに終始したわけではありませんし、消費都市に店舗を持たなかったわけでもありません。「その経済活動と商いの特徴」については、実際に史料館に足を運び自分の目で確かめ、また展示観覧のために準備しましたパンフレットを読んで頂きたいと思います。
 本学の史料館は、設立当初から近江商人の経済・経営活動に関わる史料を意図的に収集しています。これらはほとんど全てが公開され、これまで本学に在籍された諸先生によって、多くの研究成果が挙げられました。現在の近江商人に関わる定説は、これらの先達によって打ち立てられたものと言って過言ではありません。とりわけ、現代企業の経営活動の様々な側面のツールを辿ると、多くのものが近江商人にたどり着く、といったことも指摘されてきました。
 しかし、現在では必ずしも近江商人に限ることではない、といった意見も出され、新たな見直し、再検討の時期を迎えています。確かに、近世期の商人類型である近江商人を無批判に近現代の企業活動に結びつけて理解することは、多くの問題を含んでいます。近年は経営史・経済史のみならず、歴史学が新たな方法論を模索している段階です。このような時期に、これまでの近江商人研究の基礎となった本学保管の史料を展示し、あわせて「近世の」という言葉に新しいパラダイム構築への意志を含めました。
 「近世」というアーリー・モダンな時代に近江国という地域を置いてみた時、一体なにが見えてくるのか。近江国内の商業を全体としてとらえた時、全国を商圏として活動した「近江商人」は一体どのような新しい姿を見せるのか、それは引いては現代の企業社会の諸問題を解決する上で、いかなる示唆を与えてくれるものなのか。今後の日本社会、ボーダレスの世界を目指す動向のなかで、どのような発言が可能なのか。このような、長期的な戦略を念頭に置いて企画を立てました。先人たちの書き残した史料・遺物をながめて展示の趣旨をご理解頂ければ、幸いです。
(企業経営学科 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その四
東海道本線貫通の民間代行と近江商人

 明治期の近江の商人達のベンチャー精神に富むエピソードを紹介しましょう。まず滋賀県の交通に関するクイズに挑戦してください。Q1「東海道本線の全通は明治22年7月ですが、最後の開通区間は?」Q2「平坦で、さして難工事でもない滋賀県が最後になったのは?」Q3「後回しにされた当時の滋賀県民の反応は?」
 答えは順に「米原~大津間」「琵琶湖があったから湖上を汽船で代行」「大いに憤慨し、民間資本で同区間を建設、経営しようとした」です。
 それでは問題の解説をしてみましょう。当時は湖面に面した大津駅(現在の浜大津)とやはり湖畔の長浜駅の間は太湖汽船(現在の琵琶湖汽船)が鉄道連絡船を運行しました。しかし貨客とも乗換が不便で、後回しにされて大いにプライドを傷つけられた県民らは、彦根の殿様だった井伊直憲を先頭に立て「一、早く鉄道を敷いて欲しい。二、政府に金がないなら公債を引受けよう。三、さもなければ一種の第三セクター(民設官営形態)はどうか?四、それも駄目なら湖東鉄道という純粋私鉄でやらせろ」という物知り顔の提言をしました。出願者は近江商人として名高い富豪、現在の滋賀銀行の前身・百三十三国立銀行の幹部連中、滋賀大生協前に碑がある旧彦根藩士の日下部鳴鶴など、文武両道にわたる豪華キャストでした。
 が、石頭のお役人は「東海道はお上自らが敷くべき本線なるぞ。下々の出る幕ではないわい」と冷たく却下。当時金がなく、国の鉄道の払下げまで検討した明治政府の役人にとって、ひたすらに政府にご許可を嘆願する他県の申請とは異なり、近江商人の財力と、大老を生んだ旧彦根藩のインテリぶりを誇示(?)する態度にカチンときたのかも。門前払いを食らった出願者も頭にきて、別に関西鉄道という名で草津から四日市、名古屋方面に至る私鉄を三重、京都等他府県資本家と組んで申請したのです。(関西鉄道は後に大阪・名古屋を直結。お上の東海道線に競争を挑み、運賃の大幅割引、豪華賞品付の関西商法で客を集め「生意気なヤツ」とお役人の憎しみを一身に浴びる悪役的存在となりました。)当時の滋賀県知事中井弘はなかなかの人物で、こうした県下の商人達の果敢な企業設立に大いに手を貸し、先頭に立って支援しました。 
(ファイナンス学科 小川 功)