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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第42号

史料館で本物を知る

 新入生の皆さん、入学おめでとうございます。今年の彦根は昨年にも増して寒さが残る春でした。雨に見舞われたとはいえ、彦根城壕端の桜花は、皆さんの入学を祝福するがごとく咲き誇りました。
 入学後、はや一か月余の時日が過ぎましたが、少しは学生生活に慣れたでしょうか。ここで過ごす4年間は、良き社会人として飛翔するための修行・稽古の期間です。この間の充実度が、社会人となって過ごす年月を豊かにできるか、それとも悔恨の日々を送ることになるかの岐路となるのです。それゆえ、心して学業・課外活動に励んでもらいたいと切望しています。
 さて、皆さんが過ごす彦根の地、あるいは滋賀県(近江国)は、歴史と文化に満たされた土地です。有史以来の遺跡や文物が身近に残されています。もちろん、他府県から入学された方々も、故郷の歴史・文化に馴染んできたとは思います。しかし、受験勉強をしなければならなかったこともあって、直接文物に触れるために博物館や美術館、あるいはコンサートなどに足を運んだ人は、そう多くはないでしょう。これからは、時間を有効に使ってそれらの場にでかけ、自分の目で本物を鑑賞することを心懸けてもらいたいと思います。その体験や記憶は、よりいっそう豊かな教養と知識を身につけることになるでしょう。
 本史料館は、全国で唯一の学部附属の史料館です。近江商人や近江地域史の研究・教育に供するために17万点以上の史資料を保管・公開しています。史料を閲覧するために外国から研究者も訪れる施設です。重要文化財も4件お預かりしています。4件という数字をみると僅かではないかと思われるかも知れませんが、2400点を超える古文書ですから、点数では日本で屈指のものを保管しているのです。
(附属史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その36
ドンケツアン先生コンニチハ



 当史料館は近江の名所、と私は考えています。近江の各地には、古くから息づくさまざまな精神があり、それぞれに形をなし、その地の今の風光を支えています。この館の前に立たれて、ナニカアリソウ、と感じられるなら、それはおそらく、地元と本学とのあいだに数十年にわたって築かれた信頼を背景に、自家や自村に伝わる古文書を寄託しようと決断された方がたと、お預かりしようと決意した研究者の精神が寄り合っている場所であるからでしょう。
 どなたにも見てほしいのは、展示室に入って左手奥のケースにある木版刷りの長者番付です。日野や八幡の商人たちを相撲取りに見立ててのもの。19世紀前半に湖東中郡で出されました*。ランキングは今も盛んですが、たいていは単純に数値化して順位付けた一次元配列です。しかし、相撲見立て番付ですと、まず東と西に分けるため、二つの次元が用意され、微妙な競合は避けられます。そして中の柱をなす欄に、順位を付けがたい名前を、興行主や行司の役で据えますと、三次元構成となります。この番付方式は、江戸期なかば、18世紀以降しだいに広まり、19世紀の江戸や大坂では、医家、儒者、絵師はもちろん、織物、饅頭、鉢植にまで優劣を競わせては、楽しまれたり、スキャンダルを起こしたりしました。人名を並べる時は版元も気をつかい、「ただいま改版準備中」との逃げ口上を脇に付けたものでした。
 ところが、史料館に展示してある番付は違います。19世紀前半の湖東の目利き精神の結晶と申しましょうか。特徴のひとつは、資産の大小による配列を基本としながら、質的な評価も欠かせないと、別次元をからませていることです。その意図は、絵や字で作った九種の目印を各人の名前の上に付けることで果たしています。「宝」字入りの打出小槌、枡に「久」字といったものです。それらの意味が欄外に解説してあり、それとつきあわせれば、各商人の金の使い方、器物の備え、家宅や庭の手入れ、家の持続などについての評が伝わってくるのです。打出小槌は「長者随一」の印でしたが、必ずしも大金持に付くとは限りません。中柱の下の「裏土俵」欄もユニークです。そこに囲われた大金持に、ある印が付いています。ご自分の目で確かめて下さい。  いまひとつの特徴は、逃げ口上なしの姿勢です。欄外に作者の弁 ― ざっとご覧になれば順がかなり違うと思われるかもしれません。しかし、相撲は数多の秘術があって勝負が決まるもの。そうお考え下されば、ご異見も大方なくなるでしょう。また、何かの噂があれば再検討もしました。それでもなお残る見方の違いはお許しを、と。
 一次元のランキングと、この周到な番付との違いは、居並ぶ人々それぞれの個性が見えてくるか否かということではないでしょうか。前者では、上位のみに目が移りがち。後者では、各地のさまざまな旦那衆が全体としてどのような賑わいを示しているかが見えてきます。このようなタイプの番付は、近年出版された古番付集を見渡しても、類例が無く、近江独特のものではなかったかと考えはじめました。近江では、この版の一部を改めたものがほかに見つかっていますし、長浜のさる家で、人名が少ないながら同じような多次元配列のものを見たこともあります。  古代以来、近江は、水運、陸運の要として、人やモノや情報がつねに脈動、各所に一風ある町が大胆かつ繊細な文化を醸し出しています。この番付のような目利き精神が育つのは、近江ならではのことかもしれません。思えば、18世紀の八幡の人、伴蒿蹊の『近世畸人伝』も、百名の人物を選ぶにあたり、儒学者は高島の中江藤樹と弟子の熊澤蕃山、そして筑前の貝原益軒のみ。よほど広角の視野と判断への自信なしにはありえない人選です。
 それにしても、この番付を作った人「呑穴菴茶楽斉」とは誰だったのでしょう。2年前にイギリスで行った講演では、近世安定期日本の自足洒脱な暮らし向きを話題にして、この番付作者にも触れました。その六字の意味にドンケツとかシャラクサイとかの俗言をかけた味わいを英語で伝えるのは至難のこと。思案のあげく、Insatiably Tea-drinking Nonchalant Scholar at the Bottomと、お茶を濁しました。
*「湖東中郡日野八幡在々持余家見立角力」(真崎家文書)
(附属図書館長 横山俊夫)

江戸時代の菅浦村の鉄砲



 今回の春季展示では、江戸時代の村々には田畑を荒らす鳥や獣を追い払うための鉄砲(「威(おど)し鉄砲」)があったことを示す史料を取り上げています。それは、いわば、「農具としての鉄砲」でした。当時の村々の鉄砲については、歴史学研究者の塚本学氏や、武井弘一氏による研究があります。くわしくは塚本氏の『生類をめぐる政治』や、武井氏の『鉄砲を手放さなかった百姓たち』といった著作をぜひお読みください。
 さて、菅浦村にはいつ頃から、どれくらいの鉄砲があったのでしょうか。展示している史料は寛政十二年(1800)のものですが、膳所藩の郡(こおり)奉行の下で地域行政に携わった地方役(じかたやく)という役人の業務記録である『膳所藩郡方日記』には、享保六年(1721)の以下のような記事が見えます。
  一つ、菅浦村猪・鹿大分出(だいぶで)、作毛荒し候に付き威し申したく
  候、村に鉄砲弐丁御座候(ござそうら)えども、損じ候て用に立ち申さず候
  あいだ、御借し下され候様に願い候に付き、登之助殿へ申し
  入れ候ところ、然(しか)らば先ず壱挺借し申すべく候、所持の鉄砲
  直し候て用い候様に申し付け候様にと仰せ付けられ候
 つまり、これ以前から菅浦村には威し鉄砲が二挺あったのですが、どうやら故障してしまっていたようで、領主である膳所藩へ鉄砲を貸してくれるよう願い出ています。そこで藩は、一挺は貸すが一挺は修理して使うようにと指示しています。「菅浦共有文書(近世分)」には寛政十二年の史料のほか、明治五年(1872)に村で鉄砲を二挺所持することを願い出た史料もありますので、江戸時代を通じて鉄砲の数は基本的に二挺だったようです。
 同じく『膳所藩郡方日記』には、延享元年(1744)に菅浦村から「山中に獅子(猪)おびただしく徘徊いたし、山寄りそのほか村近辺にこれ有り候田畑荒らし難儀いたし候に付き、このたび御鉄砲壱丁拝借つかまつりたき由(よし)」を願い出たという記事もあります。この時期には多くの猪が出没して、山の方から村の近くまで広く田畑を荒らし回り、村の人びとを困らせていた様子がうかがわれます。

(附属史料館 青柳周一)