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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第38号

史資料に向き合う


  新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。入学から1ヶ月過ぎましたが、新しい学びの環境には慣れたでしょうか。
 大学での講義は、高校生までのように教師が板書したことを写し取り、宿題をこなすといった姿勢、つまりは「勉強」しているだけでは対処できません。大学は知的な空間であり一つの共同体です。この空間においては、何よりも自分の力で考え、行動する必要があります。大学は学問をする場であり、研究する所だということです。自らが学び問い、研鑽して究めることが求められるのが、大学という場なのです。
 社会に有為な人材を養成し、送り出すのが大学の最大の使命ですから、教員はその手助けをしますが、学生である皆さんの自助努力がなければ人間として成長することは不可能です。学ぶということは、主体的に取り組むということでもあります。
 附属史料館は、日本の国公立大学で唯一の学部附属の史料館です。滋賀大学経済学部の存在証明の一つである近江商人研究や近江地域史研究に資するための史資料が保管、公開されています。滋賀大学生ならいつでも閲覧、利用することができます。ただ、史料館の史資料を読みこなすためには、くずし字(古文書)を読む能力が必要となります。古文書は見た目には難しいように思うでしょう。皆さんにとっては初めて見る外国語のように写るかも知れません。
 しかし、文体は古いといっても日本語なのですから、誰でも読めるようになります。その手ほどきをする講義科目も用意されています(古文書解読A1・2)。全国の経済学部で唯一の開講科目です。活字資料ではなく、第一次史料を読んで趣味ではない歴史を学ぶというのは、大学でなければできないことの一つです。
 歴史の史資料に向き合い、苦闘してみることもまた、滋賀大学経済学部で学ぶ楽しさだと思います。皆さんが有意義な4年間を過ごされることを願ってやみません。

(附属史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その32
高 商 の 母


 わたしたちが在籍する滋賀大学経済学部は、歴史を溯ると、彦根高等商業学校という教育機関にゆきあたります。1923年に最初の入学生を迎えた彦根高等商業学校は、第二次世界大戦下の1944年に彦根工業専門学校へと転換し、実学教育を担ったその使命をいったん終えることとなりました。そして日本国憲法のもとで、1949年に滋賀大学経済学部が発足します。
 これまでこの高等商業学校は、充分に研究されてこなかったとわたしにはみえます。たとえば、国立大学法人の経済学部の前史として小さくあつかわれるていどだったり、あるいは、やがて国立大学へと昇格してゆくことを期待された未熟な幼虫のように描かれてきたりした観があります。
 19世紀の末から20世紀初頭に設置された官立のこの高等商業学校は、山口、長崎、小樽、大分、福島、彦根、和歌山、横浜、高松、高岡、そして、台湾と朝鮮にもおかれました。東京、名古屋、神戸の高等商業学校はほかの学校よりもさきに大学に昇格してしまったため、高等商業学校というときに数えられないばあいがあります。
 わたしはここ数年にわたって、各地の高等商業学校の歴史資料を調査し、それらを整理するばあいもあり、そして高等商業学校史の研究をしています。小樽商科大学が創立百年を記念して刊行した小樽商科大学百年史編纂室編『小樽商科大学百年史』学科史・資料編(小樽商科大学出版会、2011年)に小樽高等商業学校が実施した海外修学旅行についての稿を寄せましたし、また、その母体が東京等高等商業学校だった一橋大学の附属図書館が「旅する高商生」と題して開催した2012年度企画展示にあわせて催された講演会に講師として招聘されました。
 いくつかの高等商業学校を調べるなかで明らかになったことがあります。それは、20世紀前期に機能した教育機関としての高等商業学校は、たんに現在の国立大学法人経済学部の前史とだけみるには惜しい研究対象であること、そしてときに軽く貶めるようなものいいで語られる、高等商業学校は金太郎飴のようだ、とかたづけてしまうにはあまりある多様で多彩な知の装置だったということです。
 残念ながら、高等商業学校の関係史料は、それぞれの後継となる国立大学法人できちんと整備されていないところがあります。それを整えるために、わたしはいくつかの史料目録もつくってきました。史料の一点ずつを手にとる目録づくりは、時間がかかりますが、ひとりで道具もあまり用いずにできるもっとも簡便な歴史の記録づくりでもあります。また歴史の痕跡としての史料を未来へと継いでゆくためにも、いまや文書などのデジタル撮影は、史料保存のために不可欠な環境整備ともなっています。そうした手立てに習熟して慣れてゆくこと、史料の案内としての目録づくりを欠かさないこと、これらは研究者も怠らずにみずからおこなうべき作業だとわたしは考えています。
 過去から継がれてきた文書などを史料として保存し公開し活用してゆくことは、いろいろなつながりを介しておこなってゆくところにその興趣があります。今年、滋賀大学経済学部は創立90周年を迎えます。2013から90を引くと1923となり、この90周年という記念の仕方は、わたしたちの学部がその創立を彦根高等商業学校の開学においていることをあらわしています。起源を想起し回顧することは、あらたな未来の創生を見晴るかすこととつながります。この記念の年にわたしは、高等商業学校という歴史を媒介にして大学外のひとたちとの交流をも深くしっかりと結びなおし、そのつながりを未来への確かな結び目としたいとおもっています。わたしたちの学部の母体となった高等商業学校という教育機関はひとつではありませんでしたし、それを調査し研究するときの視座はひとつではないのですから。
( 社会システム学科 阿部安成)

赤玉神教丸と桂文之助



 今年の春季展示では、有川市郎兵衛家と鳥居本宿の歴史を特集しています。江戸時代の有川家は赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)という有名な薬を製造・販売していましたが、この薬は鳥居本宿の本店と、大津髭茶屋町の出店でしか扱っていませんでした。つまり当時の有川家にとって、主な顧客は中山道や東海道を行き交う大勢の旅行者たちであり、神教丸は近江の土産物として購入されていたと考えられます。  しかし明治時代に入ると、有川家は大阪や京都に支店を置き、全国各地の業者とも請売の契約を結ぶなど、神教丸の販路を積極的に拡大する方向へ経営方法を変化させています。さらに神教丸のビラの印刷や、新聞広告の掲載についての史料もあり、この頃の有川家では各種メディアを用いた宣伝も活発に行っていたようです。そうした中、大阪支店の岡本友七という人物は、有川家に対してあるユニークな宣伝方法を提案しています。
 有川家文書中に残る岡本の書状(写真、年未詳)によれば、当時の大阪には落とし噺の名人として人気のあった「桂文之助」という噺家(落語家)がいました。岡本はこの桂文之助に頼んで、神教丸の効能を内容に盛り込んだ落とし噺か、「都々一(どどいつ)」や「よしこの」(どちらも俗謡の名称)を作ってもらい、その上で難波新地法善寺の寄席で神教丸を配布することを有川家へ持ちかけているのです。
 桂文之助(初代)は天保十三年(1842)生まれの噺家で、弟子の中には「オッペケペ節」の川上音次郎もいました。彼は明治六年(1873)から初代桂文枝の門下で桂文之助を名乗りますが、同十九年には「二世曽呂利新左右衛門(そろりしんざえもん)」と改名するので、先の書状はこの期間に作成されたことによります。
 有川家文書中には文之助自身から送られた書状もあり、そこには「自分には『生焼けのお骨』というあだ名があるので、骨の柄の掛け物や額、彫り物などを集めた『野ざらし会』を開催します。御旦那様(有川家当主)も是非何か出品してください」などと記されています。有川家と桂文之助とのやり取りをめぐる史料は、明治以降の商品コマーシャルと芸能との関係史を考える上で、たいへん興味深いものと言えるでしょう。

(附属史料館 青柳周一)