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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第37号

近江商人に出会う


 本年の史料館秋季企画展は、「史料館で近江商人たちと出会う」と銘打って開催されます。これは1952年に史料館が博物館相当施設として文部省(現文部科学省)から指定されて60周年を迎えたことを記念しています。
 滋賀大学経済学部は、その前身である彦根高等商業学校開学以来、近江商人・近江地域史の研究・教育に多大な成果を挙げてきました。多くの教職員・学生たちが県内外に伝来した膨大な史資料を調査・収集し、それらを整理し公開に供してきました。このことは、先人たちが後世に伝えてきた史資料を死蔵させることなく研究・教育に活用させるという、永い年月をかけた知的営為の実践でもありました。
 また、これらの史資料の大半は、近江商人の末裔の方々や県内外の村々(自治区)から寄贈・寄託されたものです。経済学部における斯学の研究・教育は、その意味で多くの方々のご高配によって維持されています。これらの方々のご理解と協力なくしては、今日の史料館はあり得なかったといっても過言ではありません。ここで学ぶすべての人々は、そのご好意に応えられるように努める義務があると言えます。
 過ぐる60年の間には、近江商人や近江地域史の研究において、学術的にも多くの史実を解明し、その成果は日本国内外で発表されています。史料館の史資料を用いた研究は、英語・ドイツ語の学術書にも反映されています。
 今回の企画展は、近江商人とはどのような商人であったのかを改めて考えてみるきっかけにすべく準備されました。史料館が保管する史資料のごく一部しか展示できませんが、これまでの研究を彩った史資料を紹介しながら、これからいかにこれらを活用させていくか、改めて考える機会になることを期待しています。
 史料館には毎年、新しい史資料が搬入されています。これからも未知の近江商人と出会うごとに近江商人研究も大きく変わることでしょう。それゆえ、学界においても斯学の中心的施設である史料館で近江商人を学ぶことは、大きな意義があるのです。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その31
アイルランドのナショナルスポーツ


 アイルランドには、ハーリング、ゲーリックフットボールなどのナショナルスポーツがGAA(ゲーリックアスレティック協会)主導のもと行われている。ハーリングとゲーリックフットボールはサッカーよりやや大きいグラウンドで、H字型のゴールを用いて15人で行うゴール型のスポーツである。ハーリングはハールと呼ばれるホッケーのようなスティックとシリターと呼ばれる硬いボールを用い、ゲーリックフットボールはサッカーボールのような球形のボールを用いる。用具の違いを除けば、両方の競技規則はほとんど同じである。9月に行われる全国大会の決勝は、アイルランドで最大のスポーツイベントとなり、約8万2000人収容の聖地クロークパークは毎年満員になる。日本でもジャパンGAAが都内で定期的にトレーニングセッションを行っており、アジア大会にも出場している。
 では、アイルランドでなぜ、地理的に隣接するイギリスで誕生したサッカーやラグビー、ホッケーではなく、ハーリングやゲーリックフットボールが継承されたのか。
 GAAはアイルランドがイギリスの植民地であった1884年に設立される。設立の趣旨は、アイルランド人のためにアスレティック大会(陸上競技を中心とした運動会のような大会)を行うことと、消滅しつつあったナショナルスポーツを復活させることだった。当時のイギリススポーツ界は「アマチュア規定(賞金をもらって競技する選手、肉体労働を生業としている選手などの参加を禁止)」のため、一般のアイルランド人は大会に参加することが認められなかった。また、飢饉や貧困に起因する急激な人口減少のため、伝統的なナショナルスポーツの担い手がいなくなっていた。これらの問題を解決するためにGAAは誕生する。
 設立後すぐGAAは、アスレティック大会の開催とハーリングやゲーリックフットボールの運営により、アイルランド全土に影響力を持つ組織となる。その成功の一因は、イギリスからの独立や自治を獲得しようとする組織と結びついたことによる。加えて、イギリススポーツの流入に抵抗するため、「GAA以外が運営するスポーツ大会に参加したものは、GAAの大会への参加資格を失う」「ラグビーやサッカーなどのスポーツを、プレーしたり観戦したりしたものは、GAAの活動を停止させられる」などの禁止条項を制定することにより、組織を絶対的なものとした。
 二十世紀初頭、アイルランドの独立運動が活発化する。GAAは独立運動組織のリクルートの場となり、スポーツ活動の合間に、ハーリングのスティックをライフルに見立てた訓練を行ったと言われている(2006年公開映画「麦の穂を揺らす風」にもこの描写が見られる)。こういったスポーツと政治の結びつきは、戦うための身体訓練や民族意識を高揚させるなど、心身両面で独立運動に強く貢献した。アイルランドの人々にとって、ナショナルスポーツは、単に余暇を埋める身体活動ではなく、自分たちのアイデンティティを確認するシンボルとなった。
 GAAはイギリススポーツの流入に対抗し、自国のスポーツ文化を保護することに成功した。しかし、それがあまりにも政治と結びついたため、現在に至っても、一部の地域ではイギリスとアイルランドの分断を再生産している。スポーツの力は、共通の身体経験により人間関係を強固にし、また、言語の壁を乗り越えるなど素晴らしい面を持つが、対立や憎悪を増幅させてしまうこともある。現代社会において、スポーツは我々の生活の一部であり、オリンピックなどメガイベントは世界に対して計り知れない影響力を持つ。スポーツ史を明らかにすることを通して、スポーツが社会に対してどのようなメッセージを投げかけることができるのか考えていきたい。
 参考文献 : Marcus De Burca, The GAA: A History, Gill & Macmillan, 2000
( 社会システム学科 榎本雅之)

近江商人史料から見える北方世界


 江戸時代、北海道のうち渡島半島南端の松前を除く広大な地域は「蝦夷地」と呼ばれました。蝦夷地に居住するアイヌと和人(日本人)との交易を統制していた松前藩は、各地の商場(場所)の経営を商人たちに請け負わせていました。こうした場所請負人には近江商人も多く加わっており、今回の企画展で取り上げた近江八幡の西川伝右衛門もその中の一人でした。
 企画展では、西川伝右衛門家文書の中から「万永代覚帳」という表題の帳簿を展示しています。この帳簿は、元禄十五年から文政八年(1702~1825)にかけて、同家の商業活動をはじめ、相場情報や蝦夷地で起きた出来事などについて、八幡の西川本家で書き継がれたものです。
 ここでは、寛政元年(1789)の「クナシリ・メナシの戦い」に関する記事について見ましょう。クナシリ・メナシの戦いとは、飛騨国(岐阜県)出身の飛騨屋久兵衛の請負場所であったクナシリ島とキイタップ場所内メナシ地方で発生した、大規模なアイヌの蜂起のことです。西川本家には同年6・7月に松前から送られた書状によって情報が伝わったようで、「万永代覚帳」にはそれら書状の文章が書き留められています。その文章を少々引用しましょう(原文に読み仮名を補い、一部漢字をひらがなに改めました)。
 先月上旬、クナシリに於いて夷(アイヌのこと)乱発り、御見附御足軽竹田勘兵衛(勘平)殿始め、通司(アイヌ語通訳)・番人都合七十七人、そのほか飛騨屋クナシリ商船に下り候手船大通丸船頭舟中、残らず何れも夷共に打ちひしがれ変死の由…(以下略)
 右の文中には「七十七人」とありますが、実際に殺害されたのは飛騨屋の支配人・通司・番人など七一人(松前藩士一人を含む)でした。それに対して松前藩は、蜂起に加わったアイヌ三七人を処刑しています。「万永代覚帳」には蜂起が起きた原因について、飛騨屋が悪質な経営を行ってアイヌを餓死させた、また竹田勘平がアイヌに薬を与えたところかえって死なせてしまったなどといった情報が記されています。
 「万永代覚帳」の記事は、クナシリ・メナシの戦いについて商人の間で伝わった初期情報として、北方史研究の上でも貴重と言うことができるでしょう。
 ※参考文献…菊池勇夫『18世紀末のアイヌ蜂起―クナシリ・メナシの戦い』(サッポロ堂書店、2010)
(史料館 青柳周一)