経済学部

TOP附属史料館経済学部附属史料館広報活動滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM ≫ 滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第35号

滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第35号

もう一つの旅

 本年度の企画展では、江戸時代に近江国を旅した人々の日記や紀行文、そして眺めたであろう景観が描かれた絵図や刷り物などを展示しています。このような旅は、物見遊山に類することであり、現代風に称するならば観光旅行ということになりましょうか。 しかし考えてみれば、この種の旅は少なくとも旅費・宿泊費が必要なのですから、ある程度の豊かさや生活に余裕ができていることが前提となります。また、心の余裕も必要でしょう。江戸時代は、その限りで一般の庶民にも物見遊山を可能にする経済的な豊かさが成立した時代だといえます。もっとも、時には幕末の「ええじゃないか」のような一種のヒステリックな旅もありました。いずれにしても、旅は日常から離れて心身をリフレッシュする効果があった筈で、それは今も変わりありません。
 一方、「可愛い子には旅させよ」という諺があります。何時からこの諺が成立したのかはわかりませんが、近江商人の店則にも引用されていますから、江戸時代には確実に言われていたようです。この旅は、両親の庇護を離れて「他人の釜の飯」を食べる機会を得ることを意味しています。この旅の道中は、自分本位では生きていけません。他者との関係の中で、多様な価値観を学び、利己主義を改めるためのものです。それは、わがままで自己本位な子供から、多様な価値観や行動規範をもつ大人になるための修練の道程を歩むことになります。幼い、十歳前後の我が子を商家の奉公人に出す両親は、そのような成長を我が子に期待して手放したのです。この旅は、道中には辛抱や質素・倹約の実践、あるいは道徳心の修得など、決して楽しいことばかりがあったわけではありません。旅の向こうには、確実に自分の努力が報われる結果が待っている筈でした。そこへたどり着ける人は、やはり一握りにしか過ぎませんでした。しかし、自助努力を続け、志し半ばで夢潰えた者にも、それまでと違う旅が始まるのです。
 現在を生きる私達も、形は違えど一生旅を続けるのです。君たちは旅の途中を精一杯努力していますか。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その29
罹災史料の保存に向けて ―寺子屋 力石家(ちからいしけ)伝来史料

 今年1月2日の夕刻、彦根市河原町花しょうぶ通商店街の3戸の住宅が全焼しました。右端の1戸は、彦根城下では江戸時代から現存する稀少な寺子屋建築でした。空き家となっていたこの建物を平成9年に商店街の有志が借り受け、町の活性化の拠点として「花しょうぶ館 寺子屋力石」が開設されました。平成17年以降はひこね街の駅「寺子屋力石」と改称し、「花しょうぶ学舎力石」、「それぞれの彦根物語」等の市民交流の場を提供してきました。平成19年11月には耐震工事も完了しています。
 まず力石家と、この建物に在って罹災した史料について概略を述べたいと思います。同家初代角右衛門は元文3年(1738)には彦根城下中組の足軽であったことが彦根藩井伊家文書から知られます。八代目弥左衛門(1716~1788)が現在の河原町に隠居・分家し、河原町力石家の初代となり寺子屋としての歴史がはじまりました。力石家史料は、塩ビ製衣装箱4個(うち1箱は別置されており無事)とA4判茶封筒1袋でした。衣装箱の中は、主として寺子屋時代の教科書類や、明治以降に営まれていた表具商に関係する夥しい数の日本画の習作・下絵類が収納されていました。そして、封筒には昨年夏に現ご当主が発見された未調査史料「手跡指南職」株仲間の史料が収められていたのです。
 寛政8年(1796)、彦根藩主井伊直中は城下町民の教育向上を図り、中藪上片原町の九郎左衛門以下12名の寺子屋師匠に「手跡指南職(しゅせきしなんしょく)」を命じ株仲間組織としました。「手跡指南所」は幕末に9カ所となりますが、力石家は終始この職にあり最後の総代を勤めました。そのため年番で持ち回りする大切な株仲間史料が同家に残されたと推測されます。
 従来、彦根城下の寺子屋については、藩校弘道館教授中村不能斎が明治期に作成した「彦根藩学制志」の記述以外にその詳細は明らかではありませんでした。封筒に収められていた力石家史料は、年番が綴った文政から慶応年間まで40年間の日記「公私史記」、「仲間名録」、「年中行事」(文政7年 1824)等、寺子屋運営の実態を物語る多くの内容が含まれています。「公私史記」には彦根藩より通達される「触書」も記され、そこには寺子への具体的な指導「お堀の魚を捕らない、竹馬に乗らない、落書きをしない、寺小屋での出来事を親に報告する、履物を揃える」等々があり、今の小学生と何ら変わらない子どもたちの姿がありました。安政5年(1858)改正の「書籍覚」(写真1.)には寺子屋教育の根幹である手習本等が収納場所別に、入手経路、石摺・和摺の別、筆写人名を一覧できるよう記され、合印による所在確認がなされていました。筆者人には初代と三代当主も挙がっています。
 力石氏が、鎮火直前に座敷の床柱が崩れ炎が立ちのぼった時、「(掛け軸の)天神さまも怒ってはるで」とつぶやかれたことが今でも耳に残っています。ご当主自らが火事の翌々朝救出され、滋賀県の施設で乾燥処理された史料は、現在は彦根市に仮保管されています。
力石家史料保存にむけての取り組み
1.) 焼失した史料「書籍覚」 (撮影した写真の内容から、罹災史料の一部が確認できる)
2.) 救出された史料
3.) 簡単に汚れを落とし、トレーに入れタオル等で水分をとる
4.) 3.)の状態にしたものを真空凍結乾燥機に入れ、1日をかけて凍結させる
その後約10日間で除々に水蒸気を抜き乾燥処理し、処理後に2週間のならし期間をおく
水分を除去した史料はカビの発生や腐敗を防止することができる
5.) 乾燥後の史料例
6.) 漉嵌(すきばめ)修復を終えた上掲2点の史料
(史料館 堀井靖枝)

中井光熙の東北旅日記 ~相馬・松川浦を中心に~

 今年度の企画展「江戸時代の近江を旅する」で取り上げた旅行者の一人・中井源左衛門光熙は、仙台(宮城県仙台市)をはじめとして各地に出店を構える商家の主人でした。そのため光熙には、これら出店へ定期的に足を運び、経営状態を直接監督して廻る必要がありました。これもまた、近江商人の「旅」の一つです。
 文政七年(1824)の出店廻りの旅の記録(写真)によれば、光熙はこの年の3月27日に日野(蒲生郡日野町)を出発して、5月4日に仙台へ到着しています。そして、石巻(宮城県石巻市)での滞在を挟みながら、閏8月22日に仙台を発ち、同23日に相馬(福島県相馬市)の出店へとやって来ています。
 相馬店での滞在中、光熙は「松川浦」の見物に出かけています。松川浦は、宇多川や小泉川などの河口に位置する入江を長大な砂洲がせき止めてできた潟湖(せきこ)で、その大きさは長さ7キロ、最大幅1.5キロに及びます。大小さまざまな島々が浮かぶ松川浦の変化に富んだ風景と、天然の堤防である砂洲の向こうに広がる太平洋とのコントラストはとても見事で、古くから風光明媚なことで知られていました。
 光熙も店廻り記録の中で、「松川浦へ罷り越し候処、十二景・塩場・大洲・中洲・十二本松と申す、絶景」「それより松川観世音参詣、板橋これ有り、その辺り絶景」と、観光ポイントの名前を並べながら、「絶景」の語を繰り返しています。なお「十二景」とは、貞享五年(1688)に当時の相馬藩主が選ばせた「松川十二景」のことです。
 昨年夏、相馬市では「近江商人から見た相馬中村城下町」というシンポジウムが開催され、館長と僕も講演者として参加させていただきました。その際には相馬市史編さん室の方に松川浦を案内していただき、光熙が眺めたままの美しい風景を堪能することができました。しかし、今年3月の東日本大震災は、海に面した松川浦に対して大きな被害をもたらしました。松川浦では優れた風景とあわせて、汽水湖ならではの貴重な生態系も維持されており、アサリやアオノリの養殖業も盛んだったのですが、すべて津波による打撃を蒙ってしまったとのことです。
 遠く離れた地からではありますが、ただただ復興をお祈りするばかりです。
(史料館 青柳周一)