経済学部

TOP附属史料館経済学部附属史料館広報活動滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM ≫ 滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第34号

滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第34号

歴史から学ぶこと


 新入生の皆さん、入学おめでとうございます。未曾有の東日本大震災に遭遇し、ご家族・親類・知音の人々が罹災されている方もいるのではないかと思います。かくいう私も、東日本の知人の安否を尋ねて不安な日々を送りましたし、まだ連絡の取れない人もいます。東日本の大学の多くが、四月から新学期を迎えられないなかにあって、本学は通常通りに学年暦が始まりました。それゆえ、大学で学べることの大切さ、幸せを皆さんには今一度噛みしめてもらいたいと思います。そして、東日本の大学に進学した友人達の分も、心して学業・課外活動に励んでもらいたいと切望しています。
 ところで、大震災の発生以来、連日報道されるテレビや新聞・雑誌などに触れて、腹立たしくなることはありませんか。素人では理解することが困難な数値を挙げて「安全」を訴える政府、東電、安全・保安院や「想定外」であることを声高に主張して「天災」にすり替える関係者たちの姿を見るにつけ、何と無責任な人々たちだと思ったことはありませんか。
 私は、このような言説や人々に触れるたびに、この人たちは何一つ歴史から学ばなかったのだと思ってしまいます。そして、想像力に欠けた人々なのだと言わざるをえません。  
人類が経験した最大のチリ大地震は、M9.5であったとされており、そのさいに地球の裏側から押し寄せた津波で三陸海岸域も被害を受けた経験・記憶をもつ人々は、まだ生きています。この事実に鑑みるならば、「安全」の備えがM10に対応できるように設計されていたのなら、「想定外」とは言えましょう。M10の規模が発生することを想像できない者が、自分の能力を過信していたに過ぎないのですから、これは「人災」でしょう。  
 また、日本には古記録や古文書などの歴史史料を博捜して古代から発生した地震災害年表が刊行されていて、それを見れば、日本列島で、いつ、どこで、どのような地震が起き、どのような被害が生じたのかが判明しています。原発設計者は、およそこのような文献を見なかったか、軽んじたとしか思えません。  
 歴史を学ぶことは、ロマンを追求することではありません。人類が経験したさまざまな事象を学び、現代の諸問題を解決するためのヒントを得ることが第一義です。そのことを心に銘記して、史料館を活用しながら学生生活を送ってもらうことを願います。              
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その28
日本古代の国造制研究とデータベース



 2010年は、日本の古代史がちょっとしたブームになりました。710年、平城京に都が置かれたことを記念して、奈良県で「平城遷都1300年祭」が開催され、周辺の遺跡や神社仏閣には、約360 万人もの観光客が訪れました。NHKでも古代史ドラマスペシャルとして、東大寺の大仏が造られた時代を題材とした「大仏開眼」が放送され、高視聴率を記録しました。これらのイベントやドラマの舞台となった奈良時代は、
 あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく 今盛りなり
と『万葉集』に歌われたように、法律や政治制度が整備され、仏教文化が花開いた、まさに日本の古代国家が成熟を迎えた時代であったといえます。では、こうした古代国家はどのようにして成立したのでしょうか。
 少し遡って、古墳時代から飛鳥時代にかけては、簡単にいうならば、ヤマト王権の時代です。現在の近畿地方を基盤としたヤマト王権は、岡山県や群馬県などにいた各地の有力豪族と連携し、さらに朝鮮半島や中国大陸の国々とも交流を行いながら、その勢力を日本列島の東西へと拡大して行きました。その際、重要な役割を担ったのが、国造(くにのみやつこ)という存在です。
国造とは、ヤマト王権の地方支配体制のもとで、各地域を支配した地方官です。「くにのみやつこ」という名称は、一説に「国の御奴」ともいわれ、つまりは各地を治める天皇の臣下を表します。国造は全国に、130人以上が置かれたと伝えられています。たとえば、本学の所在する現在の滋賀県(古代の近江国)には、近淡海安之国造(ちかつおうみのやすのくにのみやつこ)などがいました。  ヤマト王権は、各地の有力豪族を国造に任命して、その地域の支配を保障する代わりに、物資や労働力を提供させることで、強大な勢力へと成長していきました。一方、国造の側も単に服従させられたのではなく、むしろ積極的にヤマト王権と関係を結び、その後ろ盾を得ることで、自分の本拠地における支配力の強化をはかったと考えられます。このように、国造制がどのように形成されたのかを明らかにすることは、古代国家の成り立ちを解明するために不可欠な研究テーマの一つなのです。
しかし、これまで国造制を研究するための素地は、必ずしも十分に整えられてはいませんでした。ここ数十年で飛躍的に増加した論文を収集した目録や、新しい文字資料を補った史料集は作成されておらず、約30年前に刊行された古いテキストが依然として使われ続けていました。そのため国造制を研究する際には、『古事記』や『日本書紀』などの文献から関連記事を抜き出して、複数の写本・刊本を比較検討する必要があり、かつ先行研究も地道に探さなければなりませんでした。

 こうした現状を踏まえて、私は昨年度から、篠川賢(成城大学教授)・大川原竜一(明治大学研究推進員)両氏と協力して、「日本古代の国造制と地域社会の総合的研究―国造制研究支援データベースの構築―」という共同研究を進めています。この共同研究では、国造制に関連する最新の研究成果を盛り込んだ史料集・論文目録・テキストを作成し、それらを統合したデータベースの構築を目指しています。
 日本古代史の分野では、すでに多くのデータベースが利用されていますが、国造や地方豪族を中心的に取り上げたデータベースの構築は、これが初めての試みです。また、データベースの形で公開することにより、必要な情報の検索や、新しく発表された論文の追加・更新が容易になり、以前よりも効率的に研究を進めることができます。現在までに、基礎となる史料のデータ入力、約2400 件の論文の目録化、12種類の写本の資料調査が完了しています。今年度はこれらを冊子の形に整理し、来年度にはデータベースの構築作業に入る予定です。

 この共同研究は、ひとまず3年計画で進めていますが、将来的には古墳・遺跡などの情報や、それらを紹介する映像資料も加え、さらにはGIS(地理情報システム)などと連携させて、学生や社会人が古代史・地域史を学習する際に役立つポータルサイトへと発展させていきたいと考えています。ICT(情報通信技術)を活用した新しい国造制研究は、まだ緒に就いたばかりです。
(経済学部特任准教授 鈴木正信)

琵琶湖の水害の歴史と古文書


 私は大学に入学した時から滋賀大学に職を得るまでの13年間、宮城県の仙台市におりました。その頃には古文書の調査のために、海沿いの集落で代々暮らしてきた旧家をたびたび訪ねました。そうした家の方々の多くは、今回の大震災で大きな津波の被害にあわれてしまったようです。(この原稿を書いている時点では、被害状況が実際にはどれほどであったのか、直接には知ることができません)
 震災によって多くの人命が失われたことはとても痛ましく、いくら哀悼をささげても足りません。そして被災地では、その場所で人々が長い年月をかけて積み重ねてきた「歴史」にも、甚大な被害が生じました。ある場所で現在までに起きた数々の出来事や、人々が生活を営んでいた様子は、住民自身が記憶しており、さらにその場所に残る古文書などの史資料に記録されています。そうした記憶や記録を通じて、はじめて我々はその場所の歴史に触れることができるのです。しかし震災は、大切な記憶を伝える方々に大きな被害を与え、古文書や古い生活道具、昔ながらの建物や生活環境などを消滅させてしまいました。これは、その場所の歴史を知るための手がかりが永久に失われたことを意味します。
 昨秋、史料館で開催した企画展「古文書と絵図にみる湖(うみ)辺(べ)のくらし」では、江戸時代の琵琶湖畔の村々での「水害との戦い」にも注目しました。洗堰ができる前の琵琶湖は氾濫を起こしやすく、湖畔の村々はしばしば洪水に見舞われたのです。そして水害の際には、村々で多くの古文書が失われました。
 しかし一方で、難を逃れた古文書はその後も村々でしっかりと保存され、現在に伝えられています。たとえば姉川の河口にある大浜村(現在は長浜市)の大浜太郎兵衛家文書の中には、「大水治平記」(写真)という古文書が残っています。この文書には、文化四年(1807)に湖北地方を襲った大水害の顛末について詳しく記録されており、地元の人々の被災と復興の経験を知る上で大変貴重です。
 我々はこれから、被災地の方々とともに復興を目指さなければなりません。そのためには、水害や震災に遭遇しながらも復興を遂げてきた先祖の歴史から学び得ることが、決して少なくはないはずです。
(史料館 青柳周一)