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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第29号

一何が大切なのか

この春にもお伝えしましたが、今年は世界史的にも稀な経営体である「総合商社」の伊藤忠商事・丸紅が創業されてから、150年にあたります。両社はいずれも、豊郷町八目出身の伊藤忠兵衛を業祖としています。初代忠兵衛は、5代目伊藤長兵衛の二男として生まれました。
 両伊藤家に残された史料のうち「伊藤長兵衛家文書」は、縁あって史料館に寄贈され、ようやく史料の整理を終え、この秋に目録を刊行することができました。また、忠兵衛家に伝来した史料も、伊藤家のご好意により史料館にお預かりして、現在整理を進めています。
 忠兵衛家の史料が発見されたのは、初代忠兵衛が亡くなってちょうど100年後のことでした。そして、長兵衛家の史料目録を刊行するのが、両社の創業150年目という区切りの年となりました。これは偶然のことなのですが、近江商人研究のセンター的な位置にある本学にとって、深い縁を感じます。
 企業にとって、CI(Corporate Identity)、つまり企業イメージを確立することは容易ではありません。イメージを確立させるには、永い星霜に耐えることが必要なのです。近年、両社は近江商人の理念―「三方よし」―を謳いながら経営にあたっています。両社ともに経営組織や戦略は時勢に則して変えざるを得ませんでした。そのさいに利益のための利益を追求することを強く誡めた近江商人の経営理念を失念しかけた時もあったように思います。しかし、あらためて何が大切なのかを振り返った時、たどり着いたのは結局、創業者の経営理念だったということになります。    
 創業者の理念がどのように経営に反映したのかを史料で追検証できるという意味で、両伊藤家の史料を分析して得られる成果は、商業史研究に多大な貢献を果たすでしょう。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その二十二
近世のある女性旅行者の人生
       ―鎌掛共有文書から―(二)

 前回は、江戸時代も末期の嘉永六年(1853)に、ゑんという女性が幼い娘ゑいを連れて、故郷の駿河国(現在の静岡県)の北新田村から巡礼の旅に出たことについてお話ししました。その後、ゑん・ゑい母子はどうなったのでしょうか。
      一札
一当村百姓吉郎兵衛娘ゑん、去る丑二十九歳、同人抱育幼ゑい、右両人共義、年来病気にて心願致し、諸国神社・仏閣拝礼、行き暮れ往来手形所持罷り出申し候、然る所同人共義、御村方百姓彦兵衛方にて、病気煩い中厄介に相成り候条、当節これ承り候、右は遠方帰り仕り候儀も難渋の次第、当人願い出候段承知仕り、これ依り村方人別の義は行き暮れ順礼除け帳相願い、御聞き済みに候間、其御村方御作法以って、御勝手次第御扱い向き頼み入り候、然る上は、此方いささか以って差し構い御座無く候、もちろん出生の儀は胡乱がましき儀は毛頭これ無く候、且つ宗旨の儀は、檀那寺より送り一札差し出し相添え、差し遣わし申し候、御尋ね合わせ人別次第柄手形、よってくだんの如し  
大草太郎左衛門御代官所
              駿河国益津郡城腰北新田村
  安政弐年卯十一月           親  吉郎兵衛
                     組頭 久七
                     名主 利助
     松平周防守様御領分
      江州蒲生郡鎌掛村
           庄屋 増田伝蔵殿
           年寄 与三左衛門殿
右の通り、両通安政三辰年二月八日、野垣外武左衛門より差
し出し、然る所、此者彦兵衛より妻に貰い、抱幼娘連れ罷り
越し申し候
   この史料は、北新田村の吉郎兵衛(ゑんの親)と同村の村役人から、鎌掛村の村役人に宛てて提出された一札の文面です。傍線部分によれば、ゑんは北新田村を出て2年後の安政二年(1855)に近江国の鎌掛村(現在の滋賀県日野町鎌掛)までやって来たのですが、そこで病気となってしまい、同村の彦兵衛という者のところで世話(「厄介」)になっています。そしてゑんは、北新田村はここから大変遠いので、帰るのは難しいと鎌掛村の村役人に申し出たようです。村役人はゑんの処遇について問い合わせるため、北新田村に書状を送るのですが、北新田村から返答書として送ってきたのがこの一札です。
 鎌掛村からの連絡を受けて、北新田村ではゑんを巡礼に出たまま帰って来ない人間という扱いにして、村の人別(江戸時代における戸籍)から除外するという処置を取ることにしました。これでゑんには、北新田村に帰る義務がなくなります。さらにこの史料の末尾には、安政三年に「野垣外武左衛門」という者が、ゑんを妻として貰い受け、幼い娘も連れて帰ったと書き添えられています(野垣外は鎌掛村の小字)。つまりゑんは、武左衛門の妻となって、鎌掛村の住民として暮らすことになったわけです。
 写真は、安政五年(1858)の鎌掛村の「宗門御改帳」(江戸時代の戸籍管理台帳)の中の、武左衛門家について記してある箇所です。ここには、当主である武左衛門(31歳)や、彼の弟(27歳)と妹(17歳)とともに、「是は当村彦兵衛厄介、3年以前子供引き連れ縁付き仕り申し候」、つまり鎌掛村の彦兵衛方で厄介になっていたが、3年前に子供を連れて武左衛門に嫁いできたという34歳の女房がいます。この女房というのが、ゑんその人です。そして彼女が連れてきたゑいも、北新田村を出たときは4歳でしたが、ここではもう10歳になっています。
 これ以降のゑんの人生は、さらに波乱に見舞われます。まず安政七年に夫の武左衛門が何らかの理由で鎌掛村から出て行ったようで、村の人別から外れています。文久三年(1863)には、彼の弟も村からいなくなっています。慶応四年(1868)の「宗門御改帳」には、「野垣外武左衛門後家りの家内」として、「四十三歳 りの」と「娘二十歳 ゑひ」の2人家族が記されているのですが、年齢から判断してこの2人は、ゑん(りのと改名)とゑいと見て間違いないと思われます。
 この慶応四年は9月に改元して明治元年になるのですが、駿河国から近江国へと転変の人生をたどったゑんの胸中には、新しい時代を迎えてどのような思いが去来していたのでしょうか。
(附属史料館 青柳周一)

史 料 紹 介
有川市郎兵衛家文書と寿明姫の下向


今回は、有川市郎兵衛家文書についてご紹介しましょう。
 有川市郎兵衛家は、近江国坂田郡上矢倉村(現、彦根市鳥居本町)に居住し、江戸時代から名薬として広く知られた「赤玉神教丸」を製造・販売していた家です。現在も有川製薬株式会社として経営を続けておられるので、ご存じの方も多いでしょう。有川家文書は昭和三十一年に史料館に搬入され、寄託されました。
 有川家が居を構えた上矢倉村は中山道の63番目の宿場である「鳥居本宿」の一部でもありました。赤玉神教丸は中山道を行き交う旅行者によって盛んに購入され、街道筋の名産品となっていたのです。十返舎一九も膝栗毛シリーズの中で、「それより鳥居本の宿にいたる。此所の神教丸名物なり。 もろもろの病ひの毒をけすとかや この赤玉も珊瑚樹のいろ」と、狂歌を添えて記しています。
 中山道は別名「姫街道」とも呼ばれ、和宮ほか京都の宮中から江戸の将軍家に嫁ぐ女性も多く通行していたのですが、嘉永二年(1849)には「寿明姫(すめひめ)」が江戸に向かう途次にあって、鳥居本宿で休憩を取っています。寿明姫とは摂政関白・左大臣一条忠良の娘で、徳川13代将軍家定の2番目の正室となる女性です。
 徳川家定の最初の正室は鷹司政煕の娘である有姫で、天保八年(1837)に結婚しているのですが、彼女は嘉永元年に死去します。その後に嫁いできたのが寿明姫なのですが、彼女もまた嘉永年に死去してしまいます。なお、家定が宣下して13代将軍となるのは嘉永六年なので、寿明姫は将軍となった家定を見ることはありませんでした。そして安政三年(1856)、家定の3番目の正室となったのが近衛忠煕養女である篤姫、つまり今年の大河ドラマでたいへん有名となった天璋院篤姫です。
 寿明姫とその一行は嘉永二年9月15日に京都を発ち、10月3日に江戸に着くのですが、このとき愛知川宿・高宮宿・鳥居本宿・番場宿・醒井宿は人足3000人・馬400疋(うち59疋は鳥居本宿)を出させられています。さらに彦根藩では姫君の通行につき、有川市郎兵衛ほか4人を御用懸りに任命しています。そのため市郎兵衛たちは京都の伏見まで出張したり、金銭面でも苦労を強いられました。一見華やかな姫君たちの行列も、それを迎える現地の側は大変だった訳ですが、その辺りの事情は有川家文書中に残された「寿明君様御下向御用ニ付諸事留」(写真)などの史料によって窺い知ることができます。
(附属史料館 青柳周一)