経済学部

TOP附属史料館経済学部附属史料館広報活動滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM ≫ 滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第28号

滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第28号

一五〇周年を考える

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。彦根が一年で一番華やぐ季節に大学生活を始められるようになった感想はいかがでしょうか。
 昨日までは見知らぬ人々が、今日からは4年間、同じ学舎で過ごす「学友」となったわけです。これも何かの縁だということです。健康に気をつけて自由に学び、自らに問いかけながら成長されることを期待します。
 さて、今年は「日米修好通商条約」締結一五〇周年とて、昨年の築城四〇〇年祭に引き続き彦根の町には、「ひこにゃん」が愛想を振りまくことでしょう。それはそれで楽しいことです。 
 しかし、ここ経済学部に学ぶ皆さんに、もう一つの一五〇周年があることをお伝えしたいと思います。それは、総合商社である伊藤忠商事・丸紅が創業されて、今年が一五〇年だということです。両社は、彦根市の隣町である豊郷町出身の伊藤忠兵衛を業祖としています。二代目忠兵衛の生家は、「伊藤忠兵衛記念館」として公開されていますから、一度見学に行ってみてください。
 初代忠兵衛の生家は、長兵衛家です。この住宅は取り壊されて、現在は記念碑が建った駐車場になっています。しかし、幸いなことに、「伊藤長兵衛家文書」は縁あって史料館に寄贈され、ようやく史料の整理を終え、近いうちに目録も完成して研究に利用できることになります。
 忠兵衛家に伝来した史料も、お預かりして整理を進めています。両伊藤家の史料が利用できるようになれば、150年間誰も疑わずに信じてきたことが誤りである、ということが明らかになるかも知れません。
 「学ぶ」ということは、正しいと思われていることにも疑いをもって、自らで調べて解答を出すということです。すべての学問は、そのような歩みで今に至っているのです。
 (史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その二十二
近世のある女性旅行者の人生
       ―鎌掛共有文書から―(一)

  今回は、約150年前の近江を訪れた、ある女性旅行者をめぐる顛末についてお話しましょう。舞台となるのは、近江国蒲生郡鎌掛村(現、滋賀県日野町鎌掛)という村です。鎌掛村は近江国内を通過する街道のひとつである御代参街道の宿駅でした。この街道は、神崎郡小幡(現、東近江市五個荘小幡町)で中山道と分岐したあと、土山宿(現、甲賀市土山町)で東海道と合流するのですが、伊勢神宮と近江の多賀大社の間を短距離でつなぐ道として、かつては参詣者や巡礼が多く通行していました。
 鎌掛村に伝わった古文書は、「鎌掛共有文書」として史料館に寄託されているのですが、そこには右のような往来手形が含まれています。(以下、引用する史料中の文章は、すべて読み下し文に改めています)
            往来手形の事
             大草太郎左衛門御代官所
               駿河国益津郡城腰北新田村
                          吉郎兵衛(印)
                           娘 ゑん(印)
                             丑廿九歳
                           同人抱育
                           幼 ゑい(印)
                            丑四歳
右は、此もの共儀、多病にて、心願により御座候に、諸国神社・
仏閣拝礼仕りたき段願いに付き、御届け済み、これに依り罷り
越し申し候の間、所々御禁所御教え遊ばされ成し下され候て、
差し支え御座無く候の様、御慈悲の段、御願い申し上げ奉り
候、自然病気に取り合い候か、あるいは変事等出来仕り候共、
其御所の御作法次第、御取り仕舞い成し下され候て、此方へ
御沙汰に及び申さず候、其のため往来一札、よってくだんの如し
  嘉永六丑年二月                 右村
                             組頭 久七(印)
                             名主 利助(印)
    国々
     御役所
     海陸渡船所
      宿々村々
       御役人衆中
 
  往来手形とは、旅行者が旅先で身元を証明するとともに、この旅が領主の許可を得たものであることを示すのに必要な、いわば近世における国内パスポートであって、地元の村役人や旦那寺を通じて発行されました。たとえば関所を通行する時にも、旅行者はこの往来手形を改められました。また、旅先で病気になったり、あるいは事故に遭遇するなどして、万が一死亡してしまった時にも、往来手形で身元が判明する者については、現地できちんと埋葬などの手当てをしてもらえることになっていました。
  この往来手形は、もともと駿河国益津郡城腰北新田村(現、静岡県焼津市北浜通)の吉郎兵衛の娘である「ゑん」という名前の女性が携帯していたものでした。嘉永六年(1853)、彼女は四歳になる「ゑい」という幼い女の子を連れて、諸国の神社・仏閣を参詣して回る旅に出たようです。(ゑいについては「抱育」とありますが、この時のゑんの年齢からすれば、ゑんが夫と死別あるいは離別後に、自分で育てている娘という可能性があります)。往来手形の文面によれば、ゑんもゑいも多病なので、その回復を神仏に祈願するために諸国の寺社をめぐる旅に出たとされていますが、あるいは一種の「厄介払い」のようなかっこうで、強制的に家から旅に出されたのかもしれません。
  ところで、ある村に伝わる古文書の中に、他所の者が携帯していた往来手形が残されているということは、その者が同村まで行き着いた時点で、何らかの理由によって旅が終了したことを示しています。旅が終わった理由としてまず考えられるのは、その者が同村で行き倒れ、死亡してしまったことです。最初は私も、やはりゑんは鎌掛村で死亡したのではないか、と考えていました。しかし、鎌掛共有文書を調査しなおしてみたところ、本当の理由が判明しました。実は、ゑんは確かに鎌掛村で病に倒れたのですが、その後は鎌掛村在住の男性と結婚して、そのままゑいと共に居住することになったのです。(以下、次号に続く)
(附属史料館 青柳周一)

史 料 紹 介
大橋彦祐家文書について


 大橋家は、中世には近江国神崎郡種村(現、東近江市種町)の地に一城を構えていた種村氏の末裔とされる家です。昭和三年(1928)刊行の『近江神崎郡志稿』の上巻によれば、「伊庭氏、建部氏、志村氏など、其他佐々木氏の部下で当時名のあつた家は江戸時代に入り、其後裔は幕府の大名、旗本となり、相当の地位に立たれたが、種村氏のみは二郎隆忠以来、郷土種村に家居した」と記されています。なお、史料館に寄託されている大橋家文書の中には、「種村系譜」(年代未詳)という史料がありますが、これによれば、二郎隆忠が種村に蟄居した後に「大橋」の姓を名乗ったようです。
 大橋家の家督は、二郎隆忠の後、清右衛門尉隆重―七郎兵衛尉重成―彦助尉彦兵衛重政(常閑)―彦兵衛尉猪左衛門成政―弥四郎猪左衛門成永(彦兵衛とも)―仙右衛門義武(松陰)―…と、代々受け継がれていったようです。(昭和六〇年(1985)刊の小林秀夫『近江源氏佐々木氏分流 種村氏系譜』)そして、重政は京都の小堀仁右衛門に雇われ、息子の成政は元禄七年(1694)にその跡を継ぎますが、同十四年(1701)には暇を得て種村に帰住しています。成政の跡を継いだ成永は、郡山藩の藩主である本多信濃守忠直に仕えますが、その後浪人となるようです。しかし、次の代の義武の時には井伊家の家来として、彦根藩から米十人扶持を与えられていたとされます。
 近世の村には、戦国時代には侍であった者が帰農して、村社会にあって独特な地位を占めることがしばしば見受けられるのですが、大橋家もこうしたケースに当てはまるようです。たとえば元禄二年(1689)の「仕上ル手形之事(不届ニ付名字取上等承知)」という史料(写真参照)によれば、種村では大橋家・大西家・辻村家の三家から名字を与えられた者は、村中へ披露した上で「侍分」という格式を与えられる、という古法があったとされます。
 種村の大橋家のような、武士と百姓の中間にある身分の人々が、近世には各地の村々に数多く居住していました。大橋家文書は、そうした近世の村の実態に迫る手がかりとして、きわめて貴重であると言うことができるでしょう。
(附属史料館 青柳周一)