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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第27号

彦根の歴史の奥底に絡んだ二つの糸

 今年春から行われている国宝・彦根城築城四〇〇年祭では、彦根城と井伊直弼を初めとする歴代彦根藩主を顕彰する事業とともに、佐和山城など彦根城以前の事象や日下部鳴鶴・近江鉄道など明治維新以降の歴史にもスポットを当てて、多くの人の関心と注目を集めいよいよ盛り上がりを見せている。しかしこうした光景の根底に、彦根の近世~近代史に流れる大きな溝と複雑にねじ曲がった歴史のひだに思いを馳せる人は少ない。
 幕末、大老井伊直弼は果断な政治力で開港を断行し、安政の大獄で反対者を大弾圧して、その恨みの刃で桜田門外に散った。しかし直弼亡き後の彦根藩は、幕府政権が政敵の一橋派に変わり尊攘派が台頭するや、直弼の腹心である長野主膳と宇津木六之丞を斬首して大勢に恭順し、その後徳川慶喜の大政奉還=雄藩連合構想と薩長の王政復古=倒幕路線が対立すると、今度は倒幕派に与して戊辰戦争でも戦功を立て、倒幕の志士とも気脈を通じた。
 五人の大老を出した譜代大名の雄彦根藩が徳川幕府への大恩の義に殉じ、会津藩のように城に立て籠もって倒幕軍を迎え撃っていたならば、彦根城は炎上しやがて廃城の運命にあったことだろう。そして彦根藩が直弼の政治信条に背を向け、幕府の大恩を裏切って維新政府に積極的に協力していったことが、彦根城の保存と彦根の近代的発展をもたらした。通常なら県庁所在地に置かれる護国神社も、戊辰戦争で散った彦根藩士を祀る招魂社が土台となって彦根に建立された。明治期には政府高官に上り詰めた彦根士族の政治力があって県営彦根製糸場や国立第百三十三銀行、近江鉄道が建設され、大正期にはさらに近江絹糸株式会社の創立や県下唯一の国立の高等教育機関、彦根高等商業学校の誘致を導いた。
 明治政府の方もかつての狂ったような攘夷論はすっかり鳴りを潜め、直弼の称えた開国論に豹変しつつ、文明開化では西洋文明一辺倒となって、そこでは直弼が究めた茶や禅や和歌など日本文化の真髄はなおざりにされた。四〇〇年祭のなかで、こうした彦根の歴史の奥底に潜む絡んだ糸を紐解きながら、今そこから何を学び取るのかは我々現代人の見識にかかっているのである。
(史料館長 筒井 正夫)

ばっくとぅざぱすと その二十一
芝棟との出遭い(二)

  芝棟が描き込まれている絵としてまず挙げておきたいのは、歌川広重が木曾海道(中山道)の今須の宿場を描いた作品である。今須は、この絵の中央の傍示杭に記してある通り「江濃両國境」にある宿場だが、旅籠の屋上にイチハツらしき植物が茂っているのが見える。また、同じく広重の東海道五十三次(保永堂版)の庄野を描いた有名な版画にも、芝棟が描写されている。
 近代以降の画家では、たとえば、山村の風景を好んで描いた川合玉堂の「祝捷日」〔昭和17年〕や、日本の民家を精力的に描き続けた向井潤吉の諸作品の中に、棟にイチハツなどの植物が描かれているのがはっきり確認できる。向井潤吉の絵では、とくに神奈川県、岩手県や青森県などの民家を描いた作品に芝棟が描かれていることが多いが、ここでは、岩手県二戸郡一戸町の姉帯集落にある家を描いた「草土の家」という作品を挙げておくことにしよう。
 明治期に日本にやって来た外国人画家の中にも、棟上に草花を植えるという珍しい風習に注目した者がいた。明治25年に来日したイギリス人水彩画家アルフレッド・パーソンズもその一人で、彼は、鎌倉近郊の家の屋上にアイリスが植えられている風景を描いている。パーソンズはそれについて、旅行記” Notes in Japan”(1896年刊)の中で、「茅葺屋根の上にはアイリスが植えられた土の塊が載っていて、それは緑の穂状の棟飾りとなっていた」と興味深げに記している。
 このように絵画作品の中には芝棟が描き込まれているのを数多く見ることができるのであるが、昭和の終り頃まではなお日本各地に残存していた芝棟も、現在ではその実物を見ることは非常に困難になっている。それでも、岩手県北部などには今なお芝棟のある茅葺屋根が比較的多く残っており、また青森県三戸郡新郷村では芝棟を保全する活動も行われているという。
 さて、私はこれまで芝棟については絵か古い写真で眺めていただけで、実物を見たことはなかった。しかしこの夏、箱根を訪れた際、偶然芝棟の実物を眼にすることができた。箱根は芦之湯にある東光庵の棟上である。この建物は、江戸時代に蜀山人や賀茂真淵らが訪れて句会や茶会を楽しんだ庵を平成13年に復元したものであるが、茅葺屋根の頂にイチハツなどの植物が植えられていた。
 なお、亘理俊次氏の研究書『芝棟』には、西日本では、東日本ほど頻繁に芝棟は見られないというような記述がある。ただ、その本の中に滋賀県永源寺の政所で芝棟を見たという報告が載っていた。本稿の筆者は政所に芝棟(の痕跡?)を探しに行く機会にまだ恵まれないが、いつか折を見て訪ね、滋賀県にもかつて芝棟があったかどうか調べてみたいと思っている。
(社会システム学科 金子 孝吉)

史 料 紹 介
彦根古絵図について


 今年の史料館企画展は、彦根城築城四〇〇年祭に協賛して行なっています。ここでは、「彦根古絵図」という名で呼ばれている絵図をご覧いただきながら、大昔の彦根の姿をのぞいて見ることにしましょう。
 絵図中には「彦根之地、往古ハイバラガラタチ相ましはり、山も陸も沼も一面ニ而、人家わずか所々に有シカ、皆独すなとりして世を渡る人共也」―彦根の地は、昔は茨やガラタテ(サルトリイバラのこと)が混ざりあい、山・陸・沼の一面に生えていて、所々にわずかな人家があり、人々は単独で猟などをして生活していた―という、古代の彦根のありさまが記されているほか、彦根各地のさまざまな由緒や伝承が書き留められています。
 この絵図の中の彦根は、いつの時代のものでしょうか。ヒントとなるのは彦根山の描写で、その山上には彦根城が建っていません。彦根城の築城が始まるのが慶長八年(1603)のことですから、ここに描かれているのは少なくともそれより前の彦根の姿ということになります。なお絵図中には、「此図ハ花井清心置書之写ニシテ、天正已後、慶長頃迄之当所之聞書也」という一文が見えます。すなわちこの絵図は、彦根藩初代藩主である井伊直政に仕えた花井清心という人物が、今から約430~400年前の彦根についての伝聞をまとめて、江戸時代初めに作成した絵図の写しであるようです。
 彦根城の築城以前に彦根山に建っていたのは、彦根寺の伽藍でした。この彦根寺はかつては名高い観音霊場であり、寛治三年(1089)には時の摂政・内大臣・左大臣、さらに白河上皇までもが参詣しました。彦根寺への参詣者が大勢通ったのが、巡礼街道(現在のベルロード)とされています。そして、彦根城の建設とともに彦根寺は山下に移動したのであり、その後身のひとつが滋賀大経済学部のご近所である、現在の北野寺です。
 そのほかにも、絵図中では大洞から松原にかけて石田三成の時期に築かれた「百間橋」が走り、世利(芹)川も松原の内湖へと流れ込んでいます(芹川が現在の河道に改められたのは、慶長八年)。昔の彦根の景観は、現在のものとは随分と異なっていたようです。
(附属史料館 青柳周一)