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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第24号

過去への宝探し

 新入生の皆さん、入学おめでとうございます。
 私もこの春から当史料館の館長を務めることになりました筒井です。どうぞよろしくお願いします。新入生の皆さんは、大学生となってとにかく最新の学問知識や技術に触れ、それを身につけることに期待と希望を抱かれていることと思います。
 そんな時に歴史を学んだり過去を振り返ったりすることにどんな意義があるのだろうと、思っておられる方も多いかもしれません。でもちょっと、立ち止まって考えて下さい。
 先日文化庁長官で心理学者の河合隼雄さんが、新聞紙上で、現在のあまりにも便利になりすぎた家電製品のことに触れ、そのなかで失われてしまう大事なものがあることに警鐘を鳴らしておられました。例えば、電気炊飯器一つとっても、今ではボタン一つ押せば様々な炊き加減や味加減まで調整でき、失敗せずにおいしいご飯が作れるまでに進化を遂げています。かつておいしいご飯を炊くには、米の保存の仕方から竈の管理、水加減ととぎ方、火加減の調整方法などを熟知していなければなりませんでしたし、なにより大切な家族においしく健康的な食事を提供したいという心を持っていなければなりませんでした。しかし、過剰なまでの機械化によって、便利さと引き換えに、母から娘へと代々伝えられてきた手の熟練や自然を熟知し統御する能力、そして何よりも相手への細やかな思いやりの心が失われてしまうことに、河合さんは危惧の念を抱かれたのでした。
 この話には、歴史の進歩というものの本質が良く表されていると思います。歴史は単に直線的に進歩するのではなく、いわば何かを失いながら進歩発展してくるとでもいえるでしょう。そう考えると過去は、現在に至る未熟で劣った一段階にあるとのみ捉えるのではなく、質的側面では独自の文化領域を持ち、現在が失った多様な価値や技能や知恵を秘めた魅力ある別世界であると捉えることもできるでしょう。
 当史料館では、そうした魅惑的な過去の世界を伝えるために近江商人や村落社会を始めとする膨大な史資料を保管整理し、展示解説する活動を行っています。この春も「描かれた琉球と蝦夷地―琉球貿易図屏風と古地図から―」展を開催します。是非当史料館へ過去への宝探しをしにいらして下さい。
(史料館長 筒井 正夫)

ばっくとぅざぱすと その十八
歴史研究者の職分

長島愛生園長島神社鳥居 
 back to the past―これは、映画のback to the futureの転用でしょうが、このフレイズはbackとfutureの結びつきに妙があったのであり、backとpastであれば、この二つをつなぐことは当たりまえにすぎ、そう面白みのあることとは思えないでしょう。でも、わたしたちは、過去という時間を取り戻したり、過去のある時点に戻ったりすることはできません。戻る、という動きは未来へではなく過去に向かうはずなのに、わたしたちはその動きを現実のものとすることはできない。では、歴史を知ることや、歴史を考えることは、いったい、なにをすることとなるのでしょうか。ここでは、それについて少しだけ考えてみることとしましょう。
 わたしたちの多くは、時間が経つにつれ(時代が進むにつれ)、技術が進歩し、生活は豊かになり、世のなかがよくなってゆく、と思っているでしょう。これは多くのひとが持っている、生活実感と理想や願望とがないまぜになった素朴な歴史観といってよいでしょう。確かに携帯電話やポータブル・ミュージック・プレイヤー、デジタル・カメラをみても、その技術革新はだれの眼にも明らかで、それらによって、より便利な生活が送れるようになったと実感できるのです。過去になかったモノ、過去にできなかったコトを知っているので、それがあるいま、それができるようになった現在は、過去より発展しているというわけです。この歴史観からすると、過去はつねに現在を準備したり用意したりするための未熟な時間となってしまいます。
 ところが、この歴史観を拒絶する考え方があります。過去にはそれ自体の固有の価値があり、それを現在の観点で貶めたり否定したりしてはならないというのです。現在を絶対化しないこの立場は、過去という時間と、そこに暮らした人びとの生とに、それに見合う意味を見出している、とひとまずいえます。歴史の見直し、歴史の再審の始まりです。このrevisionという態度は、ときに、「修正」という意味なのだと、それをとるもの自身から主張されることがあります。
 見直しであれ修正であれ、これは、いわば過去を過去の人びとに返そうとする態度であり、過去を現在に生きるわたしたちが占有するのではないという謙虚な姿勢であるようにみえます。だが、そうとはかぎらない。ここには、けして満足することのできない現状をおおきく転換させなくてはならない、という使命感から過去を利用する、政治が潜んでもいるのです。
 リヴィジョニストたちはしばしば、つぎのように言います。現在から過去を悪として裁いてはならない、過去が悪く見えるのは現在の高みからの裁断なのだ、過去の人びとにとってその時代はよいところもあったし、悪いところもあったんだ、と。
 わたしはこの春の初めに、3日間、瀬戸内海の島にある国立療養所長島愛生園で、史料撮影をおこなっていました。愛生園はかつてハンセン病者の隔離施設でした。「らい予防法」が廃止されたいまも、病を治癒した人びとが療養所にはいます。高齢となった彼ら彼女たちにむかって、療養所での数十年の歴史のなかには、よいこともあったし、悪いこともあったでしょ、といおうとするならば、それは、療養所に生きるひとりひとりの生への冒?だと、わたしは考えます。もしそれを歴史研究者が述べたのだとしたら、そのひとはもはや、研究者としての思考を放棄したのだ、とわたしは判断します。
 わたしたちはだれもが、現在を生きるために、過去や歴史を必要としています。その是非を論ずることに、ほとんど意義はない。わたしたち歴史研究者は、どのように過去が利用されているのか、そのことの意味はなにかを問えばよい。そうではなく、ハンセン病療養所には確かに過酷な面もあったが、でもこの施設があったおかげで病者たちは生きることができた、と療養所の外にいる研究者が述べることには、その研究者の浅はかさをあらわす働きがあるだけです。
 わたしは、ハンセン病の療養所が人びとをどのように分断し、分断された人びとは、それぞれにどのような存在となっていったのか、またいくつもの関係のなかでどのようにそれがなされていったのか、そしてくりかえされる療養所のなかでの生活が、彼ら彼女たちにとってどのような意味をもったのか、を問おうと思う。しかもこの思考は、現在のわたしたちの生の在りようと結びつくこととなる。たとえば、ハンセン病をめぐる過去を知り、ハンセン病の歴史について考えることは、じつは、それを考えるわたし自身がどのようなものであるのかを問うていることと同義になるはずです。歴史学とは、自己省察の学知なのです。
(社会システム学科 阿部 安成)

史 料 紹 介
有川喜内家文書と赤玉神教丸

赤玉神教丸(有川市郎兵衛家家文書)
 有川喜内家は、近世には近江国坂田郡上矢倉村(現、滋賀県彦根市鳥居本町)に居を構えていた家です。鳥居本の有川家といえば、腹痛・食傷・下痢止めの薬として有名な「赤玉神教丸」の製造元である有川市郎兵衛家が有名ですが、正徳六年(1716)に初代有川市郎兵衛が没して後、長男・金右衛門が分家として市郎兵衛家の元祖となり、次男の喜内が本家を継いだとされています。
 上矢倉村は、近隣の鳥居本村・西法寺(さいぼうじ)村・百々(どど)村とともに、中山道の宿場である「鳥居本宿」を構成していました。そのため、上矢倉村にも中山道を行き交う大勢の旅人たちが立ち寄ったのであり、有川市郎兵衛家はこうした旅人たちを相手に赤玉神教丸を商っていました。そして、赤玉神教丸の評判は、旅人たちを通じて全国へと広まっていったのです。
 市郎兵衛家の本家にあたる喜内家にも、赤玉神教丸の製造・販売をめぐる史料が伝わっています。その一つが、天明八年(1788)の「譲り申一札之事」という表題の史料であり、ここでは市郎兵衛家に大津の出店を相続させるべき男子がいないので、同店を喜内家に譲ると定められています。また天明二年、市郎兵衛は赤玉神教丸の偽物について奉行所に訴え出ているのですが、その際の訴状も喜内家文書の中に見られます。この訴状によれば、赤玉神教丸の偽物は、江戸・京都・大津など各地で盛んに出回っていたようです。
 江戸の大田南畝(蜀山人)の享和元年(1801)「壬戌紀行」によれば、鳥居本でも「仙教丸」や「神告丸」といった、赤玉神教丸と紛らわしい名前の薬が売られていたようです。また「神おう丸」や「神明丸」「神上さん(散)」「神おうさん」「神孝丸」などという薬もあったとする史料も見られ、こうした事例は前近代の「商標・商号権」のあり方を考える材料にもなるでしょう。  
※有川喜内家文書は、故有川紀久氏より寄託されました。また、赤玉神教丸については宇佐美英機「近世薬舗の『商標・商号権』保護」(附属史料館『研究紀要』第30号、1997年)も参照。
(史料館 青柳周一)