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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第23号

十年一日のごとく

 本年は、経済学部附属史料館が現在の地に独立した建物として開館して十周年にあたります。これを記念して秋季には特別展を開催しました。
 十年という年月は、若い諸君には長く感じる年月ですが、齢を重ねた私たち年配者には、「あっ」という間に過ぎ去って行きます。「光陰矢の如し」とはよく言ったものです。
 江戸時代の近江国の少なからざる子供達は、十歳を過ぎた頃に商家に奉公に上がり、二十年ほどの年月を商人見習いとして過ごしたのですから、その忍耐力や精神力には頭が下がります。ましてや、最終的に別家になったり番頭などに上り詰める者は、十人に一人程度でしたし、奉公途中で商人として見込みのない者は次々と解雇されましたから、終身雇用などは夢のまた夢の話でした。
 しかし、職階を登り詰めた奉公人には、輝く未来が保障されていたことも事実であって、そのことが奉公することの動機付けにもなっていました。成功した近江商人が目指したことは、「老後安穏、子孫繁栄」であったのですが、そのさい、本音であり建て前でもあったのですが、「世間」との関係で自らの存在意義を意識するように成長して行きます。ただ利益を上げるために働くのではなく、「世間」のために働くことを第一義的にとらえるように訓練されていたのです。「世間」とは、地縁・血縁・職縁で結ばれた関係の謂いですが、「自利利他」を体現することが重視されるものでした。そのような体現者のみが、多分、「十年一日」という感慨を実感できたのだと思います。
 職人であれ、研究者であれ、一人前になるには十年の努力が必要だとされています。それが長い十年なのか、一日のごとき年月なのかは、その間にどのような努力を自らに課したのかによって大いに異なるものでしょう。 私も本学部で教鞭をとって十年経ちました。史料館の歩みとほぼ軌を一にしています。顧みて十年が長かったのか、短かったのかについて述べるのは伏せておきましょう。次の十年をどのように過ごすのか、改めて見つめ直す機会にしたいと思います。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十七
ブリッジウォーター運河と「運河公爵」

ブリッジウォーター運河
 2005年2月18日、午後5時、KL1089便、マンチェスター空港へ到着。三度目のイギリス訪問。公務の隙間をぬって実現した。土地貴族の手書き資料が所蔵される本命のチャッツワースハウス(ダービシア)を都合により諦め、目指すはその関連資料が所蔵されるカンブリア公文書館。
 空港から20分、オックスフォードロード駅下車。当地は英国産業革命の「心臓部」。駅で購入した地図によれば、ホテルから徒歩10分の距離にブリッジウォーター運河キャゥスル・ベイシン(泊渠)。「運河時代」の先駆となった運河。急遽予定変更、翌1日をその見学に。
 「貴方はここからブリッジウォーター運河を望むことができる。それは、英国で最初の掘削運河であり、それまでに試みられることのなかった最も野心的な土木工事計画だった。その経済的成功は英国の運河時代の幕開けを告げるものだった。」と、写真後部にある歯車型の案内版に記されている。手前のアーチ型フレームは、運河から貨物引き上げのための昇降機である。右下の写真は、この荷役場の下部を運河側から撮影したものである。一対の跳ね橋の向こう側に220ヤードの地下運河が掘られ、地下荷役場に繋がっていたとされる。現在は封鎖され、10ヤード程度しか見ることができない。
 この運河は、1759年に、ワーズリ炭坑の所有者第三代ブリッジウォーター公爵によって同炭坑から消費地マンチェスターへの石炭輸送を目的に発起され、61年に開通した。その後、72年にランコーンへ、また99年にレイスへ拡張し、同運河は、リヴァプールとマンチェスターの主たる輸送路となっただけでなく、他の運河との連結により、リヴァプール港、東岸のハル港、ロンドン港、北西岸のブリストル港を結ぶ運河ネットワークの最も重要な環節の一つとなった。
 この野心的な運河計画を構想したのは、公爵自身であった。事情により、弱冠一四歳で公爵位を継承したフランシス・エガートン(1736?1803)は、17歳の時、「グランド・ツア(遊学旅行)」――貴族教育の総仕上げとして一般的に行われたもの――で、運河先進国フランスのラングドック運河を見学し、いたく感銘を受け、多くの時間をこの運河で過ごした。この経験が帰国後生かされ、運河構想に結実したと伝えられるが、当時の技術の伝播の在り方の一つを示唆しているように思われる。
 ワーズリ炭坑には、40マイルの地下運河が走り、ブリッジウォーター運河に連結され、採炭後の石炭が直接マンチェスターに輸送された。地下運河は、単に坑内運搬を目的に敷設されたのではなく、排水とその運河への供給、換気など様々な役割を果たすよう工夫されていた。それは、鉱脈の賦存状況によって可能になったようである。
 地下運河システムを設計したのは、水車大工出身で、後に高名な土木技術者となったジェームズ・ブレンドリという人物であった。ブリッジウォーター運河も彼の設計による。その特徴は、閘門や築堤や堀割を出来るだけ避けたために、等高線を辿るというものである。地図をみれば、この運河が、ほぼ並行して走る1893年完成のマンチェスター船舶運河と比べて、曲線を描いていることからも分かる。
 運河の開通によりマンチェスターの石炭価格は半額になったと言われる。このことからだけでも、運河が産業革命の進展に果たした役割を窺い知ることができる。マンチェスターとリヴァプール間の開通まで10年の月日を要し、この間、公爵は22万ポンドを投じたといわれる。完成直前の71年、公爵の負債総額約13万ポンド、年利子5,400ポンドに対し、運河収益は、約3,500ポンドに過ぎず、破産が危惧された。しかし、その後、英国産業革命の生命線ともいうべき両都市間の交易は著しく拡大し、それに比例して、運河収入も増大し、公爵は一大富を築いた。この成功が、運河熱に火を付け、運河の黄金時代が始まった。公爵が「運河公爵」と呼ばれるようになった理由がここにある。
 公爵が、炭坑所領の経営に専念したのは、失恋の痛手からロンドンの社交界をさり、ワーズリの地に移ってからのことであった。それ故、先のフランスでの経験と併せて、「ヨーロッパグランドツアと失恋が一緒になってイングランドを運河時代に押し込んだ」ともいわれる。
 ところで、鉄道時代の始まりも、両都市間における近代鉄道の開通からであった。しかしながら鉄道時代の到来と同時に、運河が直ちにその歴史的使命を終えたのではない。鉄道の出現により、馬車、運河、鉄道のそれぞれが、その役割と位置を与えられ、新しい交通体系ができあがったというのが、事実適合的な説明である。ブリッジウォーター運河に即していえば、鉄道の開通後も、相変わらず両都市間の綿花や石炭等の嵩物(かさもの)や重量物の輸送では、鉄道を凌駕しており、経営的に十分採算のとれるものであった。この運河が商業貨物輸送を終えるのは、1974年である。以後、専ら遊覧船の航行に使われている。現在、観光資源として新たな命を吹き込まれ、今なお運河は現役である。一度、インターネットで英国運河の旅を試みてはどうだろうか。
(経済学科 阿知羅  隆雄)

史 料 紹 介
前川善三郎翁行商の図について

前川善三郎翁行商の図(前川家文書)
 今回は、一幅の肖像画を取り上げましょう。ここに描かれているのは、前川善三郎という商人です。この肖像画は、善三郎の孫である故・前川善市郎氏から、平成十四年に史料館にご寄託いただきました。
 善三郎は嘉永元年(1847)、犬上郡高宮(現、彦根市高宮)に生まれました。12歳の時に、叔父である前川太郎兵衛が経営する大阪店に入り、21歳で同店を譲り受けています。この店は大阪備後町の角地に所在していて、洋太物を扱っていました。
 『近江人要覧』によれば、善三郎は高宮と大阪の店舗を往復するごとに、かならず10貫目(約38キロ)ほどの商品を自ら運んでいたそうです。高宮から大阪までの順路は、まず徒歩で草津まで行って一泊し、翌朝は早起きして京都の伏見に向かい、そこから三十石船に乗って宇治川~淀川を下り、大阪市中に入るというものでした。また、時には数頭の馬に綿糸を積んで、善三郎自身は帳簿の入った行李と弁当を持って、大和・河内や四国・九州まで商用の旅に出ることもあったといいます。
 後に、善三郎は日本紡績会社の創立に参加し、大阪商業会議所の議員にも名を連ねるなど、近代的な企業家として活躍しました。一方で、財団法人前川慈修会の設立や、彦根高等商業学校創設への寄附など、社会活動面でも特筆すべき業績を残しています。善三郎は昭和六年(1931)に、84歳で亡くなりました。  この肖像画では、21歳の善三郎が大阪に行商に出かける姿が描かれています。21歳といえば、まさに大阪店を受け継いだ年であり、希望と活力に満ちた一歩を踏み出した姿を記念したものと言えるでしょう。画中の善三郎は、天秤棒をかつぎ、その両端に商品(織物か?)を紐で吊るし、菅笠(すげがさ)や早道(はやみち:携帯用の小銭入れで、帯にはさんで使用)を身に付け、草鞋(わらじ)・脚絆(きゃはん)・股引(ももひき)をはくといった、典型的な近江商人の旅姿をしています。 
  この肖像画は、今回の10周年記念展でも展示しております。どうぞ、展示室で実物をじっくりご覧下さい。
(史料館 青柳周一)