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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第22号

区切りの春に

 新入生の皆さん、経済学部にご入学おめでとうございます。それぞれの方々が、志や夢を抱いて進学されたことと思います。これから四年間かけて、少しづつそれらを叶えていかれることを心から祈ります。
 本学部には、全国で唯一の学部附属史料館があります。この史料館は、近江商人研究と近江地域史研究のために、県下一円の史料を収集し、それらを整理して研究・教育のために公開する目的で設立されました。すでにその歴史は半世紀を超えていますが、現在の施設は一九九五年に新営開館しましたから、今年は十年の区切りの年です。そのため、秋には特別企画展を開催する予定ですが、新入生を迎える春には、近江商人が取扱った商品を展示して、商業活動の一端を学ぶ機会を用意しました。
 これらの商品は、ただ眺めていても楽しいものですが、それらの全てに歴史があります。その歴史を学ぶには、視覚にだけ頼っても意味はありません。まずは、文字を通して学習し、それらを解釈して、自らの言葉で説明する必要があります。しかも、その説明は、単語を羅列するだけでは他者に理解されませんから、当然ながら自らの語彙を増やさなければなりません。
 ビジュアルなものにのみ関心を置き漫然と時間を過ごす人は、時間をかけて文字資料・文献に目を通して語彙を蓄えた人に比べれば、他者を説得する力が格段に劣ることは、自明のことだと思います。「学知」というものは、自らの努力なくしては体得できません。大学とは、「学知」を得ることを前提として存在しています。
 この春は、新入生にとっても、史料館にとっても区切りの季節です。大学でなければ学べないことや、発信することが出来ない「学知」の学修と創造のために、ともに努力していこうではありませんか。 
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十六
ドイツの歴史を見据えるホロコースト

建設が進むホロコースト記念碑
 切れ目なく均等に刻まれる自然の時間の流れのなかで、人と人の集団は恐ろしく多様な社会の現象を織り成してきた。人は歴史に向き合うとき、しばしば時間の流れを一定のまとまりと捉え、それに特定の意味づけを与える。歴史という学問は、過去の総体を検証し、そこから一定の意味づけを探り出す一つの文化的な作業である。
 史料館は今年が新営十周年ということで、これから史料館ならではの企画が計画されているということであるが、ここでも一定の時間的区切りをもって最初の意義を確認し、新たな時間の地平に立ち向かうことになる。そもそも歴史的事象を記念することはさまざまな局面で見受けられる。こうした行為は、さしあたり、それが生じた「ゼロ時」の意義を(再)確認し、今日的状況における新たな意味づけを付け加えることになる。
 時間の区切りということでは、ヨーロッパ史を専攻している私には、何といっても「戦後六〇年」が念頭に浮かぶ。これに関連する「行事」はすでに、たとえばドイツ首相も参加した昨年の「ノルマンディー上陸」記念式典や、今年に入って1月27日前後におけるアウシュヴィッツ解放記念式典・追悼式典などと続いている。そして、ドイツでは、5月8日、敗戦60年を迎えることになるのである。
 この日にあわせて、一つのモニュメントと関連施設が完成する。それ は、統一ドイツの象徴であるベルリン・ブランデンブルク門のすぐ南側に位置している。ブランデンブルク門とは18世紀末、プロイセン王国の凱旋門として建造されて以来、何よりもドイツの歴史を象徴し、ナチスの時代(1933年~45年)に関して言えば、「突撃隊」のたいまつ行列(写真右下)を連想させるモニュメントである。このすぐ脇に、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)を警告する「歴史の楔(くさび)」として新たなモニュメントが除幕される。ドイツ人の民族共同体を構築しようとしたナチスの時代に、民族差別主義によって浄化されたユダヤ人や政治犯などは、およそ600万人にのぼると言われている。新たな警告の象徴は、上の写真にあるように、私が昨年九月に訪れたときには、すでにおよその姿を見せていた。一つ一つの四角い石柱はナチスドイツに迫害された一人一人のユダヤ人を象徴し、また、それらの形が一つ一つ異なっているのは、当時の「社会の画一化」と「ユダヤ人虐殺」に抵抗し、そして極端なナショナリズムの行き着く先にある、人類のグロテスクな行為を告発している(と私には感じられた)。
 モニュメントは、「ゼロ時」の歴史資料ではなく、今日になって新たに作られた「過去」の意味の象徴である。それは、過去を実証する作業を超えて、われわれの胸に「ゼロ時」の「記憶」をよみがえらせる。その文化史的意義を確認することは、10年を超えて着実な成果を生み出してきた史料館活動に象徴される過去の実証を不可欠の前提としつつ、今日に生きるわれわれに新しい時の刻み方を暗示するのである。
(経済学科 三ツ石 郁夫)

史 料 紹 介
高木共有文書

定(高木共有文書)
 これは、東近江市高木町(寄託当時は神崎郡永源寺町高木区)から寄託された、2,293点という大量の史料群です。高木区は、近世にあっては近江国蒲生郡高木村という一個の村でした。こうした近世以来の歴史を持つ村々には、しばしば多くの古文書が伝わっているのですが、それはなぜでしょうか。
 近世の村は、幕藩領主による支配の単位として位置付けられていました。そして、近世社会では文書を用いた支配が行われていましたから、村はさまざまな場面で領主と文書でのやりとりを行っていました。たとえば領主に年貢を納めるにあたっても、村は領主から年貢割付状を受け取り、さらに納めた後には年貢皆済目録が手渡されます。これら文書は、それ以降も村で大切に保管されました。なぜなら、これら文書は「自分たちは毎年確かに年貢を上納しており、その量はこれだけである」という記録となり、領主がより多くの負担を課してきた際には抵抗のよりどころともなるものだったからです。
 また近世の村は、村人たちの生活上の共同組織でもありました。そのため、日々の暮らしの中で起こる諸問題に対応し、それらを解決しようとする過程でも、村は自ら大量の文書を作成していました。このように、近世の村々では大量の文書の作成と保管が行われていたのであり、それが現在まで伝わったのです。
 高木共有文書の中で、1番多いのはやはり年貢の納入に関する史料です。また、高木共有文書の中で、最も古い史料は慶長三年(1598)、今から約420年前に作成されたものでした。
 写真に掲げたのは慶長十八年(1613)の史料ですが、これは高木村の「若者」たちが他郷の人々と言い争い(「つめもんたう(詰問答)」)になった際に、お互い見捨てず助成することなどを取り決めた定書です。こうした史料を目の前にすると、近江の村の悠久の歴史が目の前に浮かぶ想いがします。
(史料館 青柳周一)