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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第21号

「近江商人」から学ぶ

 平成16年度の附属史料館秋期企画展では、日野町大窪に居宅があった「中井源左衛門家」に伝来した歴史史資料を展示しました。今回の展示に供したものは、春期点にも展示した屏風を除き、他はすべて初めて公開に供するものです。
 本学部が「近江商人」研究では、全国で最も研究蓄積があり、今なお新しい研究成果を上げ続けていることは、論をまちません。「近江商人」研究は、今回の展示に供した中井源左衛門家の分析を通じて、一つの典型像が確立してきました。近江国に本家(本店)を置き、他国稼ぎをする商人ということが、「近江商人」の定義となっています。このような「近江商人」が、経営活動をするにあたって、合理的な会計帳簿を作成したり、「乗合商い」と称される共同出資企業の先駆形態を創業したことなども、中井家の史料を分析することによって明らかにされました。また、近年では企業の社会的貢献関わらせて、「近江商人」の「作善」「陰徳善事」の行為などが評価されていることは、よく知られた事実です。さらに、家訓・店則の分析を通じて商家における奉公人や経営委任などの実態が明らかとなり、それらは現代経営学で論じられる人的資源管理やコーポレート・ガバナンスの分析に有益な示唆を与えるものです。換言すれば、「近江商人」を学ぶことにより、現代の企業や経営者を対象とした分析が、実は陳腐な結論を導き出していることを知ることにもなるのです。
 しかし、「近江商人」は商業活動に従事する一方で、一介の市井人でもありました。書画・骨董・俳諧・立花・茶道を嗜む文化人でもありました。利益至上主義をたしなめ、地縁・血縁・職縁にこだわった商人でもありました。そのような人間を総体としてとらえることが、これからの「近江商人」研究には求められているのです。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十五
カネボウの「神様」武藤山治と「成金」鈴木久五郎

元鐘紡社長武藤山治氏胸像
 彦根に存在した紡績・繊維企業の大規模な工場が次々と姿を消しているが、今回は彦根・長浜とも関係の深い鐘淵紡績(鐘紡。現カネボウ)の名経営者・武藤山治と、買占め・成金の元祖・鈴木久五郎(鈴久)との因縁話を取り上げたい。
 武藤山治は現在の岐阜県海津郡に生れ、慶応義塾を卒業後渡米し、帰国後の明治27年鐘紡の新鋭工場である兵庫工場長に抜擢され、日本的経営の源流ともいうべき家族主義的な鐘紡独自の労務管理を確立した。
 一方日露戦争の戦時景気で仕手株の東株、鐘紡等の買占めで巨万の利益を得た鈴木久五郎(鈴久)は「成金」(なりきん)という言葉の語源になった新進銀行家である。同族銀行の資金をバックに鐘紡を買占め、数万株もの大株主となった鈴久は明治40年1月の総会で、株主利益を極大化すべく大幅な増資・増配を専務の武藤に迫った。武藤は「株主の一時の増資熱など会社百年の計から見て悪である」との信念から断固拒絶したため、鈴久は株の威力で武藤ら重役陣を追い出した。
  このころ「株界に連戦連勝を博し…終に本邦の株式界は全く氏の一手に依りて左右せらる…実に本邦空前の成金者」と持てはやされ、舞い上がった鈴久は東京湾の羽田沖に40万坪の埋立予定地を購入したり、東京の下町にある数千坪もの花月華壇という豪華な庭園を買い取って自宅としたり、中国の故事そのままに『酒池肉林』の豪遊・散財を重ね、紀文そこのけの露骨な成金ぶりを遺憾なく発揮して連日新聞紙面を賑わせた。
 しかしこうした大株主・鈴久の横暴に対抗して、武藤を慕う鐘紡従業員は鈴久アレルギーを起こしてストライキに突入した。また武藤を熱烈に支持する大阪の八木与三郎ら有力株主も「鐘紡同志会」を結成、鈴久のごとき横暴資本家を排除する体制を確立するとともに、従業員に絶大な人気のある武藤を即刻専務に復帰させた。  やがて後年、鐘紡社長にまで昇進した武藤は実業家の主張を政界に反映させるため、実業同志会を結成して代議士として特異な政治活動を本格化させた。武藤は昭和五年鐘紡を退社すると時事新報社、大阪時事新報の経営に参加して政界浄化を主張した。
  昭和九年一月から大阪時事新報に「利権の伏魔殿」たる「番町会を暴く」という長期連載記事が始まった。番長会について、主要メンバーの永野護(山叶商店)は「岩倉具光、後藤(國彦)、僕の3人が、番町の郷(誠之助)さんのところへ、ちょいちょい行って親爺教育をやっていた。どうせ集まるならもっと多く…連れて来て毎月14日に郷さんの家で会合」するだけだと弁解するが、メンバーには正力松太郎、中野金次郎、河合良成、伊藤忠兵衛、渋沢正雄らの有名財界人を含んでいた。武藤自身は9年3月凶弾に倒れるが、番町会を悪名高いニューヨークの利権の巣窟・タマニー・ホール同然の伏魔殿と見做して、「彼等の飽くなき陰謀の一端は曩には商工会議所を乗取り、近くは帝国人絹の乗取り…」と告発の口火を切った番町会攻撃は、やがて有名な「帝人事件」(結末は全員無罪)へと発展する。
 鈴久に鐘紡から追放され、シンパの従業員・株主に呼び戻された自己の体験から、武藤は成金・利権・資本の横暴など、「鈴久」的な事象に対して体質的に過剰な拒絶反応を示すようになったのであろうか。武藤の熱烈な崇拝者である八木与三郎は武藤を評して「資本家が横暴なことをするのを極力排斥した人で…所謂温情主義で、従業員あっての会社だという信念の人だ」と語っている。       ところで現在、産業再生機構の支援を受けて再建中のカネボウでは、彦根などの国内工場や各事業部門の閉鎖・売却が相次ぎ、カネボウの誇ったペンタゴン経営は見る影もなく解体されつつある。かって彦根工場の中央に鎮座して、日夜従業員の敬愛の対象となっていた武藤山治の胸像(写真)は、鈴久ならぬ産業再生機構から安住の地を追われ、関係者のご好意により関係史料とともに今回史料館に経済史・経営史の教材として寄贈された。この武藤の胸像には目下切り売りされつつあるカネボウの姿が一体全体何と映っているのであろうか。
参考文献 『武藤山治全集』、『大和証券百年史』、 小島直記『日本策士伝』ほか
(ファイナンス学科 小川 功)

史 料 紹 介
中井源左衛門光昌について

中井光昌書(中井良祐翁寿屏風 部分)
 今年度の附属史料館での企画展のテーマは、「近江商人 中井源左衛門」です。日野の中井源左衛門家といえば、一代で中井家を近江でも屈指の商家に育てた初代源左衛門光武(良祐)の事績によって有名ですが、今回は光武の跡を継いで中井家当主となった二代光昌(文寿)にスポットを当てることにしましょう。   光昌は光武の次男として宝暦7年(1757)に生まれました。もともと光武は長男の源三郎尚武に期待をかけていたようですが、彼は29歳の若さで死去したので、光昌が本家を継ぐことになりました。
 光昌は、商家経営者としてよりも、一流の文化人として評価されることの方が多い人物です。光昌は、当時の文人や画家たちとさかんに交遊してその中には銅版画や蘭学で知られる司馬江漢もいました。また、中井家の経営上の主力である出店の置かれた仙台や、京都・江戸で光昌が開催した書画会には、司馬江漢をはじめ、皆川淇園・松村呉春・佐藤一斉・谷文晁など錚々たる面々が招かれました。
 光昌自身も書画をよくし、その草書は皆川淇園から「龍蛇飛動」と評されました。たとえば初代光武が商いの心得を示した「金持商人一枚起請文」は、江戸時代の商家の間で尊ばれ、版本が数多く出回ったようですが、その版木は光昌が「金持商人一枚起請文」を浄書したものに基づいて彫られています。また、光武の長寿を祝う「中井良祐翁寿屏風」の中にあってひときわ目立つ堂々とした「南山寿」の書も光昌によるものです。これら版画や屏風は、今回の企画展でご覧いただけます。
 司馬江漢が『春波楼筆記』に「二代目は酒などを好みて、五十余にして病死しぬ」と記しているように、光昌は文化5年(1808)、52歳で死去しました。偉大な父の跡を受けて中井家の当主という重責を果たし、なおかつ風雅の世界にも足跡を残した光昌という人物は、もっとさまざまな角度から注目されるべきかも知れません。
(史料館 青柳周一)