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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第19号

「伝統」を生きる

 本年は、滋賀大学経済学部創立80周年にあたります。これを機に記念講演などが開かれていることは、学内に掲示されたポスターなどでご存じのことと思います。
 史料館においても一連の行事にあわせて記念展を開催いたします。日頃は展示することのない資料なども開陳していますので、往時を偲ぶとともに未来への礎ともなるものとして思索を巡らせていただければ幸いです。
 一口に「80年」といっても、現在の平均寿命に相当する年月ですから、人が一生の間で多くの喜怒哀楽を経験するように、彦根高等商業学校から滋賀大学経済学部への歴史にも多くの出来事がありました。学校制度の改編は、その最たるものでしょう。そして、この学舎に集った学生たち個々人にも、それぞれの歴史があったはずです。後世に生きる私たちは、ただ遺物を通じて来し方を追憶できるに過ぎません。
 彦根高等商業学校の学生たちは、「士魂商才」を建学の精神として学窓で学び、社会に羽ばたいて行きました。その後身である滋賀大学経済学部は、今、新しい時代の精神として「グローバル・スペシャリスト」たらんことを学生に期待していることは、ご存知の通りです。そこには、社会に有為たる人材を送り出すことを共通の理念とする「伝統」が反映されています。
 しかし、「伝統」とは必ずしも守旧すべきことではありません。「伝統」とは、ある特定の目的意識をもって「創造」されるものであることは、E・ホブズボウム等が指摘した通りでしょう。「伝統」は、それゆえに、時代と共に変質されていくことは当然なのです。それが全面的に良いことなのか悪いことなのか、という価値判断を下すことは適切ではありません。守るべきものなのか、それとも変えるべきなのかは、まさしく歴史的な流れのなかで考えられるべきことなのでしょう。時間は止まってはくれませんから、その時々の社会のなかで、あり得べき姿を構想する想像力が必要なのです。それは、一朝一夕に学修できるものではありませんし、他人から教えられるものでもありません。自分自身が苦闘しながら試行錯誤を繰り返して、ようやく体得できるものなのだと思います。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十一
ある工場跡地

近江絹糸工場跡地
 研究室の窓から目に入るのは、日々多彩な色をはなつ琵琶湖と何棟にも連なる近江絹糸工場であった。今春、この工場には工事用の白い幕が張られ、忙(せわ)しなく工場解体の音が響いていた。戦後、近江絹糸は「人権闘争」でその名を知られている。この争議は、1954年6月から、「拘束八時間労働の確立」「残業手当の支給」「有給休暇、生理休暇の完全実地」などの労務管理の改善はもとより、「外出制限」「私物検査」「宗教強制」に反対する「人権」を守る3ヶ月以上にわたる大争議であった。この闘争の支援の一つとして、「全学連加盟の滋賀大学のオンチコーラスの歌による支援は大歓迎を受けました」(佐藤洋輔『繊維労働者の賃金』労働旬報社、1968年、149頁)と記しており、滋賀大学とは無縁ではないようだ。近江絹糸の労働者は、生産を支える重要な労働力として新卒者が全国から募集され、はるばる彦根の地にたどりついた。いくつかの文献・調査では近江絹糸の労働者平均年齢は17歳と記されており、争議の中心となったのはこうした十代、二十代の若者であったといえよう。当時の状況を描いた書物には、早田リツ子『女工への旅』(かもがわ出版、1997年)や三島由紀夫『絹と明察』(新潮文庫、1987年)があり、容易に手にとることができる。労働者たちは今私たちが通る同じ道を行きかい、そして仲間と笑い、故郷を思い寂しく過ごす時をこの彦根の地で経験していただろう。彼女・彼らのたどった道のりを、あれから50年後の今、私たちが振り返るとするならばそこに何がみえてくるのだろうか―変わらぬものと変わったもの―。琵琶湖を背に更地となったかつての近江絹糸跡地を眺めていると、そんな思いにかられてくる。
(経済学科 筒井正夫)

史 料 紹 介
真 崎 文 庫

永代覚日記(真崎文庫 西川伝右衛門家文書)
 今回は、附属史料館に収蔵されている史資料の中から、真崎文庫についてご紹介しましょう。 真崎文庫は、近江八幡の真崎重右衛門氏が収集した史資料で、昭和三十九年(1964)に附属史料館に寄託されました。真崎重右衛門氏は『滋賀県八幡町史』(1940年刊行)の母胎となった月刊の歴史新聞『太湖』の同人であり、近江の歴史を深く研究し、その成果を世に伝えたことで名高い人物です。 真崎文庫にはさまざまな史料群が含まれています。なかでも、八幡に居を構えた近江商人である西川伝右衛門家文書は最も有名なものと言えるでしょう。西川伝右衛門は江戸時代のはやい時期から蝦夷地に渡って、ヲショロ(忍路)やタカシマ(高島)に拠点を築いて手広く交易を展開し、「北海道交易の始祖」とも呼ばれている豪商です。附属史料館収蔵の西川家文書にも、万延元年(1860)のヲショロ運上屋の諸用留や、明治期以降の小樽などの支店日記など、北海道関係史料が多く見られます。 そのほかにも真崎文庫には、近江商人である市田清兵衛家文書や谷口家文書、商人の出でありながら幕末に国学を学んで政治活動に奔走した西川吉輔家文書、八幡の為心町上共有文書や小幡町中共有文書といった町方史料などが入っており、きわめてバリエーション豊かなコレクションになっています。また、真崎家自身も江戸時代には領主である朽木家のもとで代官を勤めた家柄でしたが、同家の文書も真崎文庫のなかに遺されています。 真崎文庫はこの地域の歴史を研究しようとする上できわめて重要な史料群であり、自治体史の編纂事業にも数多く利用されています。数年来、附属史料館ではこの真崎文庫の調査・整理を重点的に進めてきました。しかし膨大な量の史料が含まれているため、その全貌を解明するにはまだ時間が必要です。
(史料館 青柳周一)