経済学部

TOP附属史料館経済学部附属史料館広報活動滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM ≫ 滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第18号

滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第18号

世界の今を考える

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。それぞれの夢を抱きながらご入学されたことでしょう。今、皆さんが抱いている新鮮な夢を4年間持続させ、少しでもそれを叶えられるように心から期待し、祈っています。
 さて、世界は激動期を迎えています。たった一つの価値が正しいと信ずる国家が、他の国々の主権を侵すような「民主主義」が声高に叫ばれています。それは、力こそ正義だと錯覚しているところから生じています。このような発想は、人類の歴史を誤って理解したとしか思えません。
 たとえば、戦争が憎しみ・悲しみしか生み出さないことは、人類史を振り返れば明らかなことです。砲弾が飛び交った戦場に稲穂や麦が実ったなどということは、聞いたことはありません。空虚な穴があいていることは、昨今の映像でも明らかでしょう。
 歴史から何を学ぶのかといえば、現代社会に生じている様々な困難な事象を解決し、今を生きるための知恵を学ぶことなのです。人類の歴史から学ぶ知恵は、人間として生きていくための助言だとも言えます。知恵は経験や体験のなかで修得されるものですから、真摯に過去を振り返る意志がなければ体現することはできません。同時に、人類が考えたことは、人種・国籍を超えてさほどの違いがあるわけではないのです。それゆえ、彦根の地にあって身近の諸問題を真摯に考えること、それによって問題の解決の糸口を見つけることは、取りも直さず世界で生じている問題を解決することに結びついているのです。
 歴史を学ぶことは、事象を暗記することではありません。ある研究者が述べていた「過去への想像力なくしては、未来への創造力は生まれない」という言葉を、改めてご入学歓迎の祝辞に代えて、皆さんに贈りたいと思います。そして、全国でも類を見ない「歴史の館」である史料館を、今を生きる思惟の場として有効に活用されることを、心から願ってやみません。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十二
忘れられた近代の礎-彦根製糸場のこと-2

彦根製糸場 繰糸場(滋賀県行政文書より)
 彦根製糸場では、三条取り二人掛の器械40釜ないし50釜を備え、富岡製糸場で技術を習得した旧彦根藩士族の子女を中心に約100名の工女を雇いました。原繭は、彦根・長浜・木之本ほか6カ所に置かれた出張所で集められた繭を蒸殺・貯繭した上で彦根に運び、80%を輸出にまわし、残りを屑糸や真綿用に出荷しました。発足当初の経営は資金繰りが苦しかったようで、県や第六十四国立銀行ならびに第百三十三国立銀行からの借入金に頼って原繭購入資金等に充当していました。
 県ではさらに、器械製糸だけでなくもっと簡易な設備で行える座繰り製糸場の振興にも力を入れ、彦根製糸場内に工女50人を対象に技術修得と製糸事業を行う付設の座繰伝習所を設置するとともに、彦根でも士族たちの手によって金亀町蚕糸社・厚生舎・松原座繰所という3つの座繰製糸場が設立されました。こうして生産された座繰り糸は彦根製糸場へ統一して品質が検査され、三井物産に委ねて海外への直輸出が図られたのです。
 その後明治十九年(1886)には、彦根製糸場は県から井伊智二郎に払い下げられ、中居忠蔵が工場長となり製糸釜数も106釜に増加され、器械も小枠取りの新機に改良されて、生産額を増加させていきました。
 ここで特筆すべきことは、彦根製糸場は、滋賀県のみならず近畿一円における近代的製糸業発展の模範工場として指導的役割を果たしたことです。特に工場長の中居忠蔵は、繭の貯蓄法の改良を図り、製糸用繭として春繭の生産法を普及せしめ、また新規工場の開業に当たって工女の養成と実習指導を行うなど近代製糸業の育成に努めました。明治十年代から二十年代初頭に建設された山中製糸場や若林製糸場、また京都の優等製糸場として名高い郡是(ぐんぜ)製糸場も彦根製糸場を範にとり、中居の指導を仰いだといわれています。また大正期に近江絹糸を創業する夏川熊次郎も彦根製糸場の繭集配人として勤務しており、この時の経験が絹糸紡績の企業化に役立ったことが推測されます。
 井伊家に払い下げられてからの彦根製糸場は、年間製糸産額を明治二十年645貫から二十八年にはピークの1,024貫にまで増大させ、以後433貫~895貫までの間を一進一退を繰り返しながらほぼ安定して経営を維持しますが、明治三十五年四月には閉場を迎えます。
 閉場の理由としては以下の3点が考えられます。一つには、明治三十三年の全国的な経済恐慌の影響で、購繭資金の借入先として仰いでいた百三十三銀行からの当座借越や横浜の売込商による為替換金が、糸価暴落のため多額の焦付きとして滞ってしまったこと、二つには、同年に、繭の乾燥所から火災が発生し乾燥所・繭置き場・揚返し場の3棟を全焼し、これらの建設費と繭損失分がやはり経営を大きく圧迫したこと、三つ目には、こうした困難な時期に、製糸場職員が経営資金を流用するという不祥事が発生してしまったことです。
 こうして翌三十五年井伊家はその家憲章中に「井伊家ハ総テ商工業ニ直接関与セズ」との規定を設けて、この歴史的な工場を閉鎖し、その後彦根製糸場は次第に人々の記憶から忘れられていきました。しかし、彦根製糸場が滋賀県や近畿一円において近代製糸業の発展を先導した意義はけっして小さくなく、今後さらなる研究の深化と再評価が期待されます。
(経済学科 筒井正夫)

史 料 紹 介
中井源左衛門家文書

「店卸帳」「大福帳」中井源左衛門家文書 
 近江の地は、全国的に商売網を広げて活躍した近江商人たちを江戸時代以来数多く輩出してきました。その中でも指折りの豪商であったのが蒲生郡日野町の中井源左衛門家です。 中井家は初代源左衛門光武(1716~1805)以来、仙台店をはじめ名古屋・大坂・伊勢の香良洲など全国各地に数多くの出店を設けて、手広く商売を行いました。また、分家の中井正治右衛門が瀬田の唐橋の架け替え工事を行ったり、草津宿に常夜灯を設置するなど、中井家は公共的な社会活動とも深く関わって、地域社会に大きく貢献していました。 その中井家に伝わった文書が中井源左衛門家文書です。近江商人研究史の中でも早くから注目されてきた文書で、1951年以降数回に分けて史料館に搬入されました。しかし、中井家文書はあまりにも数が膨大である上に、日野の本家のみならず全国各地の出店の側で作成された文書など多種多様な文書が含まれていることなどから、その全貌を窺い知るのは容易ではありませんでした。  そこで、2000年度より中井家文書の分析を中心的な課題とする「近世・近代商家文書に関する総合的研究」(研究代表者・宇佐美英機教授)に対して科学研究費が交付されたことを受けて、史料館では中井家文書の本格的な調査・整理作業に取り組んできました。 3年がかりの調査の結果、所在が確認された文書の総点数は約20,000点にも上ります。そのすべての文書について記載されている内容や作成年代などを調べる作業はすでに完了しており、それらデータに基づく全点目録もまもなく完成します。  史料館で中井家文書の公開・閲覧が完全に可能になるまでにはもうしばらく時間がかかりますが、今後の近江商人研究が発展するためになくてはならない文書となるでしょう。
(史料館 青柳周一)