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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第17号

「奉公人」の旅

  「旅」という詞から連想される想いは、人それぞれの人生経験により異なったものがあるでしょう。近世の「近江商人」に奉公に上がった子供たちにとって、「旅」は多くの場合、「商内」と結びつくものでした。文政六年(1823年)8月、代表的な近江商人である日野の中井源左衛門は、「家定録」という店則のなかで、
 可愛い子に旅させよと言うことであるが、旅は物憂きならい、世界の者の憐れみを知り、金銀の大切なることを弁(わきま)え知るものである。空しさを知る者は空しさに逢わず、不自由なる事を知るものは不自由に逢わず、かえって不自由を堪えるものは何事に逢っても痛みなく、立身の便りになるものである。壱銭なくては小河も渡ることはできないことだから、金銭の徳をよくよく弁えれば、無益なることには壱銭も費やされぬものであると記しています。これは主人である中井源左衛門が入店間もない「子供」(丁稚)に向けて奉公すること、すなわち労働することの動機付けを鼓舞した一条に付則する文章として示したものの一節です。
 「可愛い子には旅させよ」という諺は、すでに江戸時代では一般的であったことがよく分かるのですが、現代社会では「可愛い子」に「なぜ旅をさせるのか」ということの説明は、案外と考えていないものです。中井源左衛門を初めとする近江商人は、実社会における経験を経ることによって、「憐れみ」「金銀の大切さ」「空しさ」「不自由」を知ること、そのことが「立身」するための重要な要素であることを諭したわけです。「立身」とは、近江商人にあっては店内の職階を昇進することでした。この「旅」は、決して楽なものではありませんでした。しかし、終着駅には自営者としての世界が待ち受けていました。
  「旅」は物見遊山・遊興という側面があるとともに、一人の人間として人生を生きていくということでもありました。「旅」には苦楽がつきものですが、今回の展示は前者の「旅」に焦点を当てたものです。ひとまず、「楽」の世界を楽しんでいただき、「苦」にも想いを馳せていただければ幸いです。 
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十一
忘れられた近代の礎-彦根製糸場のこと-1

彦根製糸場 工女(滋賀県行政文書より)
 明治五年(1872)群馬県に開設された官営富岡製糸場のことは、明冶政府が行った殖産興業政策の代表的事例として、どの歴史教科書にも取り上げられるほど有名ですが、少し遅れて彦根にも近代的な器械製糸工場が設立されて、近畿一円の蚕糸業の発展に大きな役割を果たしたことはあまり知られていません。明治にはいってからの彦根は、彦根に見切りをつけた士族や商人たちを中心に人口流出が続き、経済も不振に陥りますが、彦根の有力士族達は、士族救済と彦根経済の挽回策として、当時輸出産業として急速な成長を遂げつつあった近代製糸業(生糸)の振興に意を注ぎます。
 そこでまず取られた施策は、官営模範工場である富岡製糸場に多くの子女を送って最新の器械製糸の技術を修得させることでした。もともと群馬県富岡周辺は、藩政期より近江商人が近江上布の原料麻苧の仕入れを行っていたゆかりの地でした。富岡製糸場でも、所員の韮塚直次郎の妻みねが彦根出身者であったことから、職を失った士族が数多くいた彦根の事情が知れ、直次郎と妻みねは彦根に赴き工女集めを進めました。こうして、富岡製糸場には彦根士族の子女達を中心に滋賀県出身者が多数雇われ、その数は明治9年~11年には452人、全工女の約3割に達し、それは地元群馬県や新興蚕糸業県である長野県をも上回る最大規模のものでした。
 こうした動きと並行して彦根では明治9年4月、旧藩士の武節貫治らが洋式器械100台を備える近代的製糸工場の設立計画を立て、16,000円を自己資本で、1万円を井伊家の出資で賄うので、3万円を国から貸与したい旨を、県を通じて国に申し出ました。しかし、これは政府の許可を得ることができず、結局、当時の籠手田安定県令は勧業課長高谷光雄等とはかって、彦根藩廃藩当時融通金と称して県に保管された金と県税をつぎ込んで輸出用生糸の生産を中心とした県営彦根製糸場の建設に着手しました。高谷ら県勧業課の職貝は富岡製糸場に出向いて輸出生糸の改良法について学び、彦根製糸場の設計や水車ならびに繰糸器の設定には富岡製糸場の技師達の力を借り、工事監督には彦根藩士で県勧業課に勤務していた中居忠蔵が当たりました。
 こうして近畿ではじめての近代的製糸工場である彦根製糸場は明治十一年(1878)6月に開場式を迎えました。彦根製糸場では、三条取り二人掛の器械40釜、ないし50釜を備え、富岡製糸場で技術を習得した旧彦根藩士族の子女を中心に約100名の工女を雇いました。原繭は、彦根・長浜・木之木ほか6カ所に置かれた県出張所で集められた繭を蒸殺・貯繭した上で彦根に運び、80%を輸出にまわし、残りを屑糸や真綿用に出荷しました。発足当初の経営は資金繰りが苦しかったようで第六十四国立銀行ならびに第百三十三国立からの借入金に頼って原繭購入資金等に充当していました。
(経済学科 筒井正夫)

史 料 紹 介
「近江路の旅人たち-収蔵古文書と絵図資料にみる-」

石場にて、旅から帰った人を迎える図
(「近江名所図会」部分)
 附属史料館では平成一四年度企画展として、収蔵史資料の中から旅日記や名所図会、それに絵図資料などを使用して、江戸時代から明治時代頃にかけての近江における旅行の歴史についての展示を開催することにいたしました。
 中山道・東海道・北国街道など重要な街道が縦横に走っている近江は、かつては人々の往来がきわめてさかんな場所でした。特に、本年は中山道400周年にあたっており、この秋には滋賀県下のいくつかの市町村の博物館でそれぞれ連携し合って、中山道の歴史に関する展示やイベントが多数開催されます。そこで、当附属史料館でも近江の街道をめぐる歴史の中で、かつて街道を行き交った旅行者たち、またそうした人々が訪れ眺めた名所・旧跡や旅先の風景に注目する展示を企画しました。
 滋賀は琵琶湖をはじめとする豊かな自然に恵まれ、近江八景や竹生嶋・比叡山・安土城跡・賎ケ岳古戦場跡など伝統ある名所・旧跡もたくさん存在する地域として古くから知られていました。たとえば、今回の展示では「湖水浦廻り 名所・寺社便覧図蹟」(当館蔵)をお見せします。この絵図は安政三年(1856)に京都と江戸の書肆から出版されたものですが、村や町等の地名のほかに近江の名所・旧跡が無数に描き込まれています。これは、現在の旅行用のイラスト・ガイドマップにあたるものと言えるでしょう。また、文化十一年(1814)には「近江名所図会」(個人蔵)も刊行されました。こちらは近江の名所・旧跡や歴史、特産品などに関する文章と、近江の旅の風景を描いた絵が多数掲載された、江戸時代の旅行ガイドブックです。
 学生諸君もせっかく滋賀に住んでいながら、古来多くの人々に愛されてきた滋賀の名所・旧跡を訪れていないとしたら、これは大変もったいないことではないでしょうか。学生諸君にとって、この展示が滋賀を旅するきっかけになり、地元の歴史にふれる窓口になれば幸いです。
(史料館 青柳周一)