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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第16号

歴史館への誘い

 御入学おめでとうございます。彦根が最も華やぐ季節に新しく学生生活を始められた新入生の方々には、今胸に抱いている夢と希望、期待と不安を自らのものとして4年間を過ごされることを願っています。
 さて、正門を真っ直ぐ進んだ右手に蔵のような建物があります。ここが史料館です。この史料館には、13万5千点を超す古文書や民俗資料が保管されています。この史料館は学部に設置された施設としては、全国で唯一といって良いものです。滋賀大学経済学部が全国に誇ることのできる研究の一つとして、「近江商人」研究と近江地域史研究がありますが、この史料館が全国の中心的な研究センターの役割を果たしています。
 滋賀大学経済学部に学んだ学生は、社会に出ると、好むと好まざるとに関わらず、あるいは関連科目の受講・不受講とに関わらず、「近江商人」について知っているものと受け取られるものです。それゆえ、一度は足を運び常設展示や企画展示を見ておくことをお勧めします。
 高校生から大学生になるということは、生徒から学生になるということです。それはまた、勉強する人間から学問する人間になるということでもあります。強いられて勉めるのではなく、学びて問うことが求められます。大学とは、自立した個人が自由に学び問うことが保証された空間です。同時期に同じ空間で、同じ空気を吸って学び合う人々の繋がりは貴重です。それは、不可知な天が与えた縁なのかも知れません。そのことを最も実感できるのが歴史を学ぶことです。史料館はいつでも、そのお手伝いをします。
(史料館長 宇佐美英機)

ばっくとぅざぱすと その十
琵琶湖と富士山の古ーい関係?

 日本で最大の湖である琵琶湖と、最大の山である富士山。このふたつは同時に世の中に出現したものだ、と言ったら、皆さんは信じるでしょうか?
 科学的に言えば、もちろんそんなことはあり得ません。琵琶湖ができたのは約100万年前のことであるのに比べて、富士山は約1万年前にできたのであって、年代的に全然合致しません。しかし、かつて日本国内にはそのような伝説が存在し、ひとびとの間で広く受け入れられていたようなのです。
 たとえば、1888年(明治二一年)にはじめて来日して以降、日本に近代登山を広める上できわめて重要な役割をはたしたウォルター・ウェストンは、著書『日本アルプス再訪』の中に、次のように書き記しています。「日本の伝説によれば、この山(富士山)は、孝霊天皇の御代五年目、すなわち紀元前285年に、初めて姿を現した。ある夜、近江の国で、大地に非常に大きい裂け目ができて、それが≪近江の湖≫(琵琶湖)となり、一方、投げ出された土は東北に二五〇キロほど運ばれ、駿河の国に積み上げられて、完璧に均整のとれた円錐型の富士山となったのである」
 紀元前285年と言いますから今から2300年ほど前、近江国で巨大な地面の陥没が起きたことによって琵琶湖ができ、その陥没した分の土が駿河国で盛りあがって富士山となった(ウェストンは土が「投げ出された」と表現していますが)―この伝説はかなり古くからあったようで、14世紀の書物である『職原抄』の中にすでに見ることができます。
 この伝説がひとびとの間でポピュラーになったのはおそらく江戸時代のことでしょう。万治三年()頃に刊行された『東海道名所記』では、富士山について「近江のみづうみ、はじめて湛へ、その土ここにわき出て、この山となりたり」などと記されています。また、寛政九年(1797)刊の『東海道名所図会』の中にも、「近州〔近江〕琵琶湖とともに一夜に現ずともいい伝えたり」との一文があります。
 そして、ウェストンの『日本アルプス再訪』によれば、このような伝説を背景として、近江国のひとびとは富士山に登る際に特別な扱いを受けていたようなのです。
 すなわち、ウェストン曰く「かつて、この(富士山の)山頂に参拝するために登山する前には、百日間、断食苦行するのが、普通の山岳信仰登山者の慣習であった。ところが、近江の国の人々は、特別にそれが免除されていた。それは、富士山が彼らの生地の土でできているので、いわば、近江と富士山とは血のつながりがあるというのである。それで、七日間の特殊な準備をすれば、他のことは免除されているのである」。
 かつて、富士山は聖なる山とされていたので、登るにあたっては身を清める必要があったのですが、近江国から来たひとびとは、ほかの土地から来たひとびとよりも簡単に済ませてよいことになっていたらしいのです。このことについては、江戸時代の儒学者である貝原益軒も、元禄五年(1692)の『壬申紀行』の中で、「駿河国中の人は一日ものいみしてのぼる。他国の人は百日潔斎す。近江の人はものいみせずしてのぼる」と書いています。
 さらに白洲正子のエッセイ『近江山河抄』では、富士山ができた時にあまった土が三上山(野洲町)になった、という話が紹介されています。このように、滋賀からは遠く離れている富士山ですが、伝説の世界ではきわめて近く、親しい関係にあるように見なされて来たのです。
(史料館 青柳周一)

史 料 紹 介
史料紹介 川瀬正彦家史料―江戸時代の女性の旅―

 長浜市の川瀬正彦氏から史料館がお預かりしている古文書の整理作業中に、「安政元甲寅三月廿日出立 西国順拝名所記」という表題の旅日記が見つかりました。今回は、この史料についてご紹介しましょう。
 この旅日記の末尾には「柴田氏 自芳尼 順拝仕」と記されており、「自芳尼」なる女性によって作成されたことがわかります。(川瀬家と「柴田氏」がどのような関係にあったのか、詳しいことは今のところ不明です)女性による旅日記は大変めずらしく、それだけでも価値のあるものです。
 最近は江戸時代の「女性旅」の研究が盛んとなり、我々の想像以上に当時の女性たちは活発に旅をしていたことが明らかになってきています。自芳尼は、そうした活発な女性旅行者の一人でした。彼女と同行者たち(男性一人を含む)は、安政元年(1854年)3月20日に彦根を出発して、いわゆる西国三十三ヶ所巡りに加えて、伊勢神宮など各地の数ある名所をいっしょに廻ろうとするたいへん贅沢なコースの旅に出たのです。
 彼女たちは、まず最初に西国三十三ヶ所の三十二番札所・観音正寺を訪れ、安土の浄厳院など近江の名所をいくつか見てから、鈴鹿越えをして伊勢神宮に参詣しています。さらに紀州に入って那智の瀧を見物(「日本一の瀧」と誉めています)したり、湯の峰温泉で入浴を楽しんだりしています(ここでも「日本一の湯」と誉めていて、どうやら紀州が気に入ったようです)。
 しかし高野山では、自芳尼たちは男性と区別されて「女人堂」という所に泊まったり、大門をくぐらずにその外の山からお堂や塔を眺めたりしています。これはいわゆる「女人禁制」の実例です。現代の感覚からすればとんでもないことですが、前近代の神社仏閣では女性を穢れた存在として締め出すか、立ち入れる場所を制限することが多かったのです。
(史料館 青柳周一)