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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第15号

広告と企業の内実

 今回史料館で展示する引札や看板といった明治期の商人達が客寄せの手段として多様した広告宣伝手段は企業のマーケティング活動の発展過程を知る上でも意義深いものがあるが、破綻企業を研究している者として企業広告そのものが企業体質の投影物である事実も指摘しておきたい。
 大正末期に大々的に宣伝し続け、全国の新聞に広告の出ないことはなかった三大売名企業は、1.「幽霊のやうな博士の名を広告に記載」した有田ドラッグ商会、2.創業者を天才と称える個人崇拝広告をうって、全国に信奉者を増やした星製薬、3.「売薬化粧品の向ふを張るような馬鹿派手な宣伝」を連発した八千代生命で、星の広告費は毎月15~20万円、八千代の1ヵ月の新聞広告は10回、4973行にも達したという。こうした企業は宣伝手段があまりに異彩を放ち、誇大な広告との批判を受け、有田は文書偽造、詐欺罪などの不正事件ありと睨まれ警視庁衛生部の手入れを受け、星と八千代は劣悪な経営の内情が暴露されて相次いで破綻した。八千代小原社長の「誇大の宣伝好き」は彼の持病と見られるなど、広告そのものが企業や経営者の隠された内実を世間に示す貴重なメッセージであった。
 最近、破綻したマイカルの中小店舗を覗くと、もはや新聞広告も打つ余力がなくなったのか、店頭で来客者に「精一杯の感謝セール」と銘打った粗末な単色刷りのチラシを配っていた。我々の情報感度さえ高めれば、たった1枚の広告からでも実に多くの有益な情報を引き出すことができることを、今回の企画展から感じ取っていただければ幸いである。
(史料館長 小川 功)

平成13年度企画展
商品広告史のひとこま―看板・絵ビラ・引札にみる―

 平成13年度史料館企画展では、「商品広告史のひとこま」と銘打って、史料館が保管している商業看板・絵ビラ・引札を一堂に展示します。
 このような展示を企画したのは、在学生の皆さんに日本における商業資本の歴史を垣間見て頂きたいということ、および本学における教育・研究活動に対して、貴重な史資料類をご寄託頂いている方々に利用の実態をお知らせしたいと考えたからです。
 史料館は本学における近江商人研究のために資する史料を多く保管しています。しかし、それらはたんに商人・商家史料に留まるものではありません。広く近江国・滋賀県下の在方(村落)史料も保管し利用に供しています。
 ところが、「史料」という名称に惑わされてか、本学の学生だけでなく教職員ともに、古文書が読めない者には利用できないと勘違いされ、学外の方々よりも利用される人数が少ない状況です。確かに近世の古文書を利用して研究するには、相当程度の読解能力を必要とします。しかし、文字を完全には読めなくとも、視点を変えて史資料を眺めれば、史料館には宝が眠っていることが分かります。
 今回の企画展は、そのような事例を示すことにも力点を置いています。
 看板・絵ビラ・引札は、現代的に表現すれば商品広告の媒体です。看板に記された商品名から生業への関心を拡げることができます。今回の展示に即するならば、滋賀県の製薬業は今日においても盛んですが、その実態についての研究は、依然として個別的なものに留まっています。甲賀地区の配置売薬の概略しかまとまった研究所はなく、薬剤の製法や経営の実態を研究する上でも、看板は有益な情報を与えてくれます。
 絵ビラ・引札もまた、取扱い商品や効能を知るうえで貴重なものです。どのような商品が、何時、何処で販売されていたのか、誰が販売していたのかを検討することにより、商品の流通の実態を分析する上で利用するに耐える資料となります。もちろん、このような経済史・経営史的な観点から見るだけではなく、描かれている画像それ自体から、広告に用いる絵柄の流行廃(はやりすた)りを分析する手掛かりを得ることもできるでしょう。さらには、芸術的な関心で眺めたり、印刷技術史的に観察することも可能です。このように、文字にとらわれなくても、観点を変えれば研究の資料となる一例が、今回の展示品でもあります。
 学生の皆さんのためには、昨年より古文書解読の能力を修得できるように講義が用意されました。文字が読めればいっそう研究への応用力が増して行きます。
 テレビコマーシャルによる商品広告は、短時間のものを何度となく流すことにより、消費者に無意識に商品を刷り込んでいるわけです。時間をかけて商品を吟味する楽しみは、直接商品を手にすることによってのみ可能です。その前提には、どのような商品があるのか、どこで販売しているのか、という情報が商人から発される必要があります。絵ビラや引札は、そのために作成されました。不特定多数に訴える大量消費社会・時代が到来する以前に、特定のお得意さま、その可能性を有する人々にこれらの品々が配布されたのです。
 通信販売のカタログや商品ポスターの先駆けともいえる資料を眺めながら、能動的な消費者になるためのヒントが得られるかも知れません。
 作品の制作者の立場を思いやりつつ、消費者の立場を振り返る機会になるものと考えています。期間中、ぜひ時間を調整して史料館に足を向けて頂きたいと願っています。
(企業経営学科 宇佐美英機)

史 料 紹 介
史料紹介 不破光雄家史料

 史料館では、このたび滋賀県彦根市高宮町の不破光雄氏から寄託された史料の整理と目録化作業を行いました。高宮町は、江戸時代には高宮村と呼ばれていましたが、先に彦根城博物館で開催されたテーマ展歴史シリーズ「江戸時代の高宮―在郷(ざいごう)町(まち)の歴史―」でも明らかにされていた通り、行政上は村として把握されながらも実態としては都市的機能を備えていた「在郷町」でした。高宮村は中仙道六十七次のひとつ・高宮宿がおかれた宿場町であり、また全国的に知られた「高宮布(たかみやぬの)」といった特産品を産出するなど、地域の経済的な中心地としても栄えていました。
 不破家は、そうした高宮村に居を構え、江戸時代には「永楽屋」を屋号として手広く商いを営んだ、いわゆる「近江商人」のひとりでした。初代・弥三郎〔安永二年~嘉永四年(1773~1851)〕は信州(長野県)を拠点として、積極的に行商に努めて一代で財を成した人物です。彼は晩年になって、家業を跡取りに譲った後は、練り薬を販売して過ごしたようですが、史料館には「御免神済帰脾丹調合所 江州高宮駅 永楽堂 法橋不破浄順」と記された、十二弁の菊の紋入りの立派な看板も寄託されています。「浄順」は弥三郎の法名ですが、「法橋(ほっきょう)」とは僧侶の位のひとつで、天保九年(1838)に綸旨によってこの位を授けられています。
 初代弥三郎以降の、近代の不破家の様子について見れば、たとえば寄託史料の中には明治三〇年代以降に株取引に積極的に関わっていたことを示す葉書や書状などが数多く含まれています。この頃になると、東京・大阪などの相場情報を、郵便や電信を活用して地元にいながらにして仕入れることができていたわけです。不破家史料は、地域の中での経営活動のありかたが時代によって変遷するさまを我々に教えてくれる点でも貴重と言えるでしょう。
(史料館 青柳周一)