経済学部

TOP附属史料館経済学部附属史料館広報活動滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM ≫ 滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第13号

滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第13号

近江商人進出地・盛岡の町

 今夏、調査の一環で盛岡を訪問し、近江商人の事跡に触れる機会を得た。交通の発達した今日でさえ、滋賀大学から盛岡までは新幹線を2本フルに乗り継ぐだけのウンザリするほどの距離がある。盛岡の歴史をひもとくと、遠く近江の高島郡からやってきた多くの近江商人が得意の商業分野を中心に活躍したとされ、銀行や新聞などの新しい分野でも、近江商人らの手で創立されたものもあった。町のあちこちに有名な豪商・小野組跡、井弥商店等々、近江商人の進出拠点が単に遺跡として残っているだけではなく、目抜きの商店街を歩くと老舗の大店の名に近江商人ゆかりの固有名詞を多数見出すことが出来る。岩手滋賀県人会の事務所を訪ね、最新名簿を見せていただくと、近江商人のご子孫たちの名前の後ろには遙か百数十年以上も前に何代も遡った先祖の出身地(多くは高島郡)が麗々しく掲げられていた。郷里を離れ遠隔の地に根をおろして活動し、やがて地域発展に大きく貢献するまで興隆を遂げた近江商人の一門が今なお父祖の地を精神的な拠り所とされている様子は感動的であった。
 当史料館にはこうした近江商人の本拠地での史料を多く所蔵しているが、盛岡をはじめ全国に散在する近江商人の進出地での足跡を示す諸史・資料をも各方面のご協力を得て充実させていきたい。
(史料館長 小川 功)

ばっくとぅざぱすと その八
銅像を読む―二つの銅像、複数の歴史―

 彦根城の北東に広がる金亀公園に井伊直弼の銅像が立っています。この立像は二代目で、初代が彦根に建てられたのは1910年のことでした。しかしそれは二番手。直弼像が初めて立ったのはその前年、横浜の地だったのです。なぜ横浜なのでしょうか。
 横浜に港が開かれたのは幕末の1859年。1909年は横浜が開港してから50年を数えるときでした。それを祝福する祭典が開催され、開港記念日から数日のあいだ横浜は開港50年祭で賑わいました。亡き主君の顕彰を切望していた旧彦根藩士有志にとって、横浜は井伊直弼の尽力で締結された条約にしたがって開かれた港にほかなりません。その祝典にあわせて記念像を建立することは何より忠誠と主君復権の証と考えられたことでしょう。
 それというのも安政の大獄を断行した直弼は、吉田松陰を師と仰ぐ人びとにとっては憎むべき悪であり、松下村塾が排出した為政者の確立した明治政府のもとでは、直弼の復権は容易に叶うものではなかったのです。現に、開港記念日に予定されていた銅像除幕式の延期は山県有朋など元老らの横槍だとの風聞が報道され、招待された多くの政府高官は開港50年祭の式典にも欠席したのでした。その一方で銅像が建った地元では町民こぞって直弼像建立を祝福し、神楽を奉納しました。また町には直弼とM・C・ペリーの人形がペアとなった山車もくりだしました。市民にとってみれば、わが港都のお祝いごとをするのに国史上第一級の人物が登場することは名誉であり、開港五十年を祝福するとき安政の大獄も桜田門外の変もほとんど意味のない過去の出来事だったようにみえます。
 二つの直弼像とそれをめぐる歴史の逸話は、歴史はつねに複数の相貌をもっていることを私たちに教えてくれます。しかも未来は過去の必然ではありませんし、過去とはいまの時点においてみつけられた現在の説明因子なのだとも伝えてくれます。
 さてBack to the Past―横浜で史料を読んでいるころの私は、彦根に毎日通勤するなどとは夢にも思いませんでした。直弼もひとりの方は自分の立ち位置にとまどっているのではないでしょうか。横浜港をみおろせるものの掃部山は横浜の場末で晴れの舞台とはいえません。やはり彦根城をみあぐ地こそが彼には相応しいでしょう。
 ただしご当地なのに二番手、しかも二代めとなると、こうした顕彰行為を彼はどううけとめるのでしょうか。直弼の顔がいくらか青ざめて見えるのは、もちろんそれが銅像だからなのですが。
(社会システム学科 阿部 安成)

史 料 紹 介
柳町喜栄講文書

 この史料は、2007年7月に旧柳町(現在の元町)より寄託されました。寄託のお申し入れから手続きまでの労をおとり下さったのは、本年3月まで大学に勤務しておられた吉原敏夫氏です。
 喜栄講は、かつて佐和山の麓にあった千代神社の祭礼のための組織でした。『彦根市史』によれば、徳川家光が多賀神社を造営する際、その末社として、千代神社も同時に造営されました。127点から成るこの文書群のほとんどは、明治以降のもので、残念ながら江戸時代の祭礼の様子などを具体的に知ることはできません。ただ、安政6年(1859)から昭和10年(1935)まで書き継がれた「喜栄講御勘定帳」(文書番号3)などから、春秋二回の祭礼に関与していたことがうかがえます。
 喜栄講の組織についても、詳しいことはわかりませんが、近代に入って作成された「喜栄講規則」(文書番号49)には、講のメンバーを15歳から35歳までとする、とあり、いわゆる若者組の組織であったことがうかがえます。先の勘定帳の冒頭には定書が掲げられていますが、そこには、喧嘩口論をしてはいけないとか、婚礼の祝儀に不作法があってはいけないとか、古参の者の言うことには従うようにとか、組織を統制するための講中の取り決めが書かれています。
 旧柳町からは、古文書の他に、提灯やおみくじなどの祭礼に関わる民具類も合わせてご寄託いただきました。幕末から近代にかけての庶民の暮らしぶりをよく伝える史料群といえます。 
(史料館 岩崎奈緒子)