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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第12号

<新入生の皆さんへ>
歴史への誘い

 2000年度新入生の皆さんは千年に一度の歴史的な節目の年に人生の大きな節目を迎えられたことになります。今この世の中にはミレニアム・グッズなど、軽薄な便乗商法が溢れていますが、この歴史的な年回りを機械に、たとえ「キリシタン」でなくとも皆さん自身のこれまでの人生や将来、この国の来し方と行く末などについてじっくり見直すことはそれなりに意義あることかと思います。現下の激動する経済現象も所詮は企業と企業、人と人との競争・戦争ですから、たとえていうなら一寸先が読めない濃霧に包まれた戦場で目先の戦況に一喜一憂するだけでなく、戦場を一歩離れた高台から冷静に戦局全体を俯瞰して大局を掌握する「司令塔」が不可欠なように、長期的な観点に立った物の見方、考え方、歴史的認識も必要です。
 滋賀大学には幸い、皆さんを悠久の歴史の世界へ誘ってくれる「タイム・マシン」が装備されており、「無料」で中世社会から近世・近代の世界を体験できる『史料館』という他大学にも類がない特殊な博物館相当施設があります。そのことは東京方面からはもちろん、遠く北海道の各地からも『史料館』に貴重な史料を閲覧に来られる研究者が多数にのぼることからも明らかです。たとえ歴史にあまり興味がなくとも、学内にある無料の民俗資料館・滋賀県関係の図書館・・・と考えて、ぜひ一度気軽に史料館を訪れて見て下さい。
(史料館長 小川 功)

ばっくとぅざぱすと その七
「田舎の邸宅」―カントリーハウス

 イギリスの田舎の何処へいっても、周囲を広大な農場に囲まれた私園Parkの遙か向こうに聳える途轍もなく大きな館を必ず目にする。これが「田舎の邸宅」Country Houseである。現在、連合王国にはカントリーハウスが1500から2000あるといわれ、そのうち800近くが公開されている。
 これらの旧いものは、その起源を中世封建制の防御用の城郭に辿ることができるが、カントリーハウスは、その後、19世紀に至るほぼ400年の間に建てられ、それぞれの時代を反映し多様である。それゆえ、カントリーハウスを一義的に定義できないが、おおむね「貴族・大地主が田舎の所領に置いた邸宅であり、その多くは所領経営の拠点となり、ときには地域の政治、文化の中心になったもの」と理解して間違いないだろう。本来カントリーハウスといわれるのは、カントリー、すなわち「国」、貴族や大地主の「領地」、そこにある邸宅という意味であったようである。しかし、エリザベス朝時代、貴族や大地主が首都ロンドンに議会や社交のために邸宅を構えるようになり、それらがタウンハウスTown Houseと呼ばれた。それ以降、カントリーハウスに「田舎の邸宅」という意味が加わったようである。
 少なくとも市民革命以前にその起源をもつカントリーハウスは日本の城郭に比肩される。封建貴族の領地支配の拠点ともいうべきカントリーハウスは、市民革命によっても破壊されず存続し、いまもその当時の姿を残している。これとは対照的に我が国の城郭は、維新期に彦根城など国宝四城を除く多くのものが破壊され、現在の多くの城郭が復元されたものである。「近代市民社会の典型」であると看做されてきたイギリス社会で旧社会の象徴というべきものが旧い姿を今に伝えているのに対し、旧社会の象徴を破壊し、旧社会との決別をはかった日本社会が、久しく旧い諸関係を残し、「半ば封建的な社会」であったといわれている。この対照は私たちに歴史への興味をおこさせる。
 ところで、歴史を学ぶ者にとってカントリーハウスは「古文書館」としての意味を持っている。多くのカントリーハウスには、所領経営に関わる手書き資料Manuscriptが所蔵されている。その所蔵史料は、主として所領帳簿や書簡であるが、先に述べたようにカントリーハウスが土地貴族による一円的な地域支配の拠点であったことを考慮すれば、それらは周辺地域の人々のそれぞれの時代の生活を写し出すものとしての意義をもつ。所蔵史料は、アーキヴィストによって分類・目録化され、公開されているところもある。イギリスには公共図書館Public Libraryと並んで、それらが文献や活字資料を中心に所蔵管理しているのに対し、手書き資料などのオリジナルソースを主として所蔵管理し、図書館とは異なった独自の機能をもつ公文書館Public Record Officeが各地に存在する。カントリーハウスは、この文書館とともにイギリス史に関する重大な史料を提供する文書館としての性格ももっている。 
(企業経営学科 阿知羅 鐘??Y)

史 料 紹 介
宮川庄三郎文書

 宮川家文書は、1999年12月に購入した文書です。宮川家の居住した近江国坂田郡米原村は、江戸時代には、高157石余りの彦根藩領の村でした。米原は、北国街道の宿で、南西に広がる入江内湖に向けて湊がありました。中山道と琵琶湖とを結ぶ目的で、慶長八年(1603)に開かれたものです。本文書は、昨秋の企画展「江戸時代の米原湊」をきっかけに、当館が所蔵することになりました。
 宮川家の当主は、近世には庄三郎(近代には正三郎)を名乗っていました。幕末の米原湊の絵図によれば、内湖に近い位置に、間口4間半奥行7間の庄三郎の家を確認できます。
 宮川家の家業は近世には船大工でした。その一方で、一艘の?F船を運送業に用いる経営権を所持し、その他数艘の船をレンタルしていたようです。寛政四年(1972)段階で宮川家の所持する船数は全部で11艘にもなります。江戸時代の琵琶湖に関わる史料を見ていると、船株を持つ「船持」が現れますが、宮川家の事例からは、船そのものを所持することと、船で運送業を営む権利を保有することとが、別々の権利として通用していたことがうかがえます。近代に入ると、宮川家は蒸気船の会社を始めます。宮川家は、2艘の蒸気船を有する湖船会社の株主で、運輸業者と推定される三汀社の経営にも関与していたらしく、これらの会社の運営に関わる史料がまとまって残されています。
 このように、宮川家文書は、近世から近代にかけての湖上交通の実態を知ることのできる、とてもよい史料をいえます。 
(史料館 岩崎奈緒子)