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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第11号

平成十一年度企画展開催にあたって

 地域社会と大学との結びつきが重視される中で、史料館では従来にまして、地域に密着したテーマでの企画展開催を検討してきました。今回の『江戸時代の米原湊』も、より身近な、よりビジュアルなテーマの模索の過程で生み出されたものです。近世末期の近江の地でも、在来技術をブレーク・スルーしようとする民衆の智恵が脈打っていた事実を、関係史料や絵図から読み取って頂ければと思います。展示では米原湊で開発された「外輪船」を紹介するのですが、この驚くべきハイテク(?)船を原寸大に復元して湖上に浮かべることが出来たら、21世紀の琵琶湖を記念する好事業になることでしょう。
(史料館長 小川功)

企画展解説
「江戸時代の米原湊」

 かつての内湖が埋め立てられ、今では当時の様子をうかがうことはできませんが、現在のJR米原駅のあたりが米原の湊でした。その湊の住人であった北村源十郎家から寄贈された文書を手がかりに、江戸時代の湖上交通の歴史の一端を紹介します。
 前半は、米原湊の社会のありようはどのようなものだったのかがテーマです。中山道の物資を湖へと誘致するために彦根藩が命じて湊を開いた経緯、船荷を取り次ぐ船問屋や船首からなる社会の様子、集荷先をめぐる近隣の松原・長浜湊との関係について展示します。藩の主導で流通経路が変更されたり、互いの利権を侵さない形で近隣の湊と集荷先を住み分けたりといった、江戸時代に特有の経済構造を見ることができます。
 後半は、米原湊にはどのような船があったのかがテーマです。湖上の船の代表選手丸子船と?F船(ひらたぶね)、湊で唯一藩から種々の負担を免除された特権船「真黒船」、船の両側に車輪を付けた外輪船「車早船(くるまはやぶね)」を紹介します。江戸時代に外輪船が営業目的で航行していたこと自体、大変珍しいと言われていますが、この車早船のおもしろさはそれだけではありません。車を回すと漁業に悪影響が出ると湖岸の漁師から訴えられたり、人の流れが湖へと移ってしまい困っていると中山道の宿駅から訴えられたり。新技術の開発、そして、それが既存の経営体と競合し影響を与える様子は、現在に通じるものといえます。
(史料館 岩崎奈緒子)

きららむし(七) >
江戸時代の金銀銭

 歴史の史料を読む場合に限らず、さまざまな時代の資料を分析するさいには、基本的に修得しておくべき知識があります。その代表的なものの一つは度量衡でしょう。現在の私たちは、メートル、リットル、グラム、平方メートルなどの単位で理解していますが、江戸時代以前にはこのような単位はなく、その時代においても、相違があります。間・尺・寸、升・合・勺、貫匁、町・反・畝・歩の単位が、江戸時代には実施されていました。したがって、これらの単位で表記される度量衡が、現在の単位に直すとどれくらいのものなのかを理解していかないと、史料から歴史像を復元することは難しくなります。
 経済学部においては、これら以外にも幣制についての知識が必要となります。経済・経営の歴史を正確にとらえるためにも、せめて三貨(金・銀・銭)の比価ぐらいは知識として持っていなければ、江戸時代の経済・経営の実態を理解することは困難でしょう。
 江戸時代にも毎日相場が立ちましたから、日々交換価額は異なりましたが、元禄一三年(1700)に江戸幕府は公定の比価を定めています。これによれば、金1両は銀60匁、銭4貫文とされました。
 金1両は金4分(ブ)、金1分は金4朱という4進法で換算されました。金貨には表面に壱分なり弐朱なりの数字が書かれていましたから、これを表記貨幣とも言います。これに対して銀貨は重さで通用しますから、秤で計って用いる秤量貨幣でした。銭は一般的には「寛永通宝」が用いられましたが、1枚1文でした。
 金貨は表記された価額で金2両3分1朱のように記されますが、銀貨は重さで換算します。銀1000匁は一貫匁ということですが、それ以下の単位は1匁が10分(フン)、1分が10厘、1厘が10毛となります。したがって、銀3貫234匁3分2厘1毛というように記されます。また、銭1000文は1貫文であり、以下の単位は分(ブ)厘毛と記され、銭5貫678文9分8厘7毛のように書かれます。しかし、銭は「寛永通宝」が1枚1文ですから、文厘毛の数値があるのはおかしいと思われるかもしれませんが、分以下の数値は交換比価として現されています。
 貨幣額の表現としてこれ以外にも、「永234文5分6厘7毛」・「銀一両」という表記や、「疋」といった単位も見られますが、いずれにしても当時の物価と併せて理解することが大切です。
(企業経営学科 宇佐美英機)

史 料 紹 介
奥野家文書

 奥野家文書は、1963年12月と1999年4月の2度にわたり、奥野文雄氏より寄託されました。奥野氏は、現在キャッスルロード近くの本町(旧上魚屋町)で小児科医院を開業されていますが、江戸時代には同じ場所で、寸松館という名の郷宿を営んでいました。総数千点を越える文書の内容は、彦根藩の政治や、幕末の政情に関わるもの、奥野家が彦根に移る前に住んでいた神崎郡七里村や、彦根での家業・家政に関わるものなど、近世から近代まで多様ですが、中でも特に重要なのはこの郷宿に関わる史料郡です。
 郷宿というのは、領主への訴えや届け出をするために出てきた者が宿泊する施設のことで、訴状の作成や訴訟手続きの代行もしていました。寸松館にも、彦根藩領の村々から出された訴状や願書を書き留めた分厚い帳面が数冊残っています。これらの記録には、奥野武右衛門という奥野家の当主の名が保証人としてしばしば現れ、訴訟の取り次ぎ事務以上の役割を果たしていたことがうかがえます。また、年始の挨拶にやって来た村々を書き留めた帳面も残っていて、寸松館が固定客を持っていたことがわかります。彦根の城下には複数の郷宿があったと考えられますが、それぞれに得意先を持ち、互いの営業を邪魔しないようにしていたのでしょう。
 訴訟に関わって残された数多くの絵図類も興味深いものです。琵琶湖の漁業の領域を描いた絵図や山野の境界を描いたものなど、内容は豊富です。現地には伝わっていないものも少なくないと思われます。これほどまとまった郷宿の史料は珍しく、貴重な歴史史料なのですが、絵図類には修復を要するものが多く、一部を非公開とせざるをえないのがとても残念です。
(史料館 岩崎奈緒子)