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《ワークショップReD》ドキュメンタリー映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」(2017年)をめぐって

「沈黙-立ち上がる慰安婦」監督・朴壽南氏

「沈黙-立ち上がる慰安婦」制作者・朴麻衣氏

 朴壽南監督と、朴麻衣編集・プロデューサーによるドキュメンタリー映像は「沈黙」と名づけられた(アリランのうた製作委員会、2017年)。映像に映るハルモニたちは、黙ってはいない。では、だれが、いつ、どこで、彼女たちに、沈黙を強いたのか。それは、為政者による、「当時は日本だけでなくいろんな軍が慰安婦制度を活用していた」(CNN.co.jp、2013.05.15)とか、「補償問題については1965(昭和40)年の日韓請求権協定で「最終的かつ完全に解決済みとの立場に変わりはない」」(産経ニュースWEB版2015.12.28)とかの発言であり、それらの言葉が流通し完全に否定しきれていない、この世のなかで、である。「いろんな軍が慰安婦制度を活用していた」のに、なぜ、日本軍の行為だけが問題とされるのか、「最終的かつ完全に解決済み」であるにもかかわらず、いまだに蒸し返すとはなにごとか、という市井の人びとの憤懣が噴きあがるこの社会で、彼女たちの行為は金銭がともなう商売だったのだ、彼女たちの証言は時と場によって異なり信憑性に欠けるといったたぐいの貶視がくわわって、彼女たちはくりかえし沈黙を強いられてきたのである。

 さかのぼれば、1994年以前も、1991年以前も、彼女たちは黙るよりほかなかった。軍「慰安婦」がいたということは、当時の軍人のみならず、それを知っているものたちが世のなかに確実にいた。しかし、性をめぐる「婦」(おんな)の人権は、国境のむこう側でもこちら側でも充分に省みられることはなかった。だから、彼女たちは黙った。

 ようやく「慰安婦」という「問題」が世のなかで認知されてからも、それは国家間の「政治」の問題であり、それぞれの国内の「歴史」をめぐる問題であり、戦時の「性」の問題であり、公娼という「営業」の問題であり、彼女たちひとりひとりのひととしての権利として考えるという姿勢がひろく共有されることはむつかしかった。

 人権というとき、たとえばウェブ上では、第一次世界大戦後のパリ講和会議において唱えられた「人種的差別撤廃提案」をとらえて、「国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である」との記述がみえる(ウィキペディア)。もしここに、わたしたちの過去にある、誇るべきところを感じとるのだとしたら、せめてウィキペディアにすら記されている石橋湛山や吉野作造の言論を読み、それらについてしっかりと考えよう。さらには、日本国も1995年に加入した人種差別撤廃条約をふまえた日本政府報告に関する人種差別撤廃委員会の総括所見をとおして現状をしっかりと摑んでおこう。

 ドキュメンタリー映像には字幕で、いくにんものハルモニたちの没年が記されていた。彼女たちはもう永遠に沈黙せざるを得ない。その彼女たちの声と表情としぐさがこの映像に遺されている。未来へと継がれるこの記録によって、「婦」の人権をめぐるわたしたちの現在の感度を、未来から測られることとなる。

(経済学部教員 阿部安成)

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