アーサー・ビナード(詩人)
詩人で絵本作家でもあるアーサー・ビナードさんに「日本は何を作ったら生き残れるか」というタイトルでご講演をいただいた。以下に、概要を述べる。
まず冒頭でアーサー氏は、英語のcoinという言葉を紹介しながら、硬貨は言葉に似ているという。意味が定まらないうちはやり取りに使えないが、意味が定まれば人々はそれを交換してやり取りを行う。通用する範囲がある程度決まっているというのも同じだ。また、coinは名詞の硬貨のほかに、動詞だと「(硬貨を)鋳造する」あるいは「(新語などを)造り出す」という意味があるという。
また英語にはonomatopeという言葉もあるが、この語源はギリシャ語にあり、名前(言葉)を表すonomaという前半と、作り出すという意味を表すpoeiaに分けられるという。
つまり全ての言語は何かを真似てつくったものだと言える。
最近、言葉を巧みに操る「広告代理店」がつくったような言辞が溢れている。
「世知辛い」という言葉が消えて、「生きづらい」という言葉が多用されるようになった。「世知辛い」は問題は社会の側にあるが、「生きづらい」というと問題は本人の側にあるとされる。自己責任という言葉ができてきたのもこのころである。「世知辛い」という言葉が消えてくる一方で、実は社会の方は何倍も世知辛くなってきた。社会がこれほどまでに世知辛くなってくる一方で、それを表す「世知辛い」という言葉が消えていくなんて現象が起こるのは、誰かが仕掛けているとしか思えない。
日本が今おかれている現状を抜け出すには、言葉を作る側と消費する側の関係が変わらない限り出口はない。考えてみれば、日本語は「広告代理店」が登場する前からあって、みんなが日本語を使って、日本語は豊かたっだ。しかし、いまは「広告代理店」が作る言葉が幅を利かせてしまっている。
「日本は何を作ったら生き残れるのか」という問いに対するアーサーさんの回答はここにある。言葉を作る作業にみんなが参加することで、単なる言葉の消費者、受け身の市民ではなく、やりたいことを見つけて進める市民になることができる。
アーサー氏のお話は、言葉という抽象的なものに限らない。言葉を主体的に生み出し、使っていくためには、意識が変わらなければならない。そして意識が変われば、行動も変わる。人が変わる、まちが変わる、生み出されるものも変わる。主体的な言葉とは、その社会の生き生きとした姿を映し出す鏡のようなものだと感じた。
(中野 桂)